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春の訪れ [その他(雑感など)]

今年の冬は例年になく雪も多く、このところ寒い日が続いていましたが、ようやく春の兆しが見えてきたように思います。
ひさびさに、とある神社に出かけたのですが、境内の木々にも芽ぐみ、花開く様子が感じられました。

芽ぐむ.jpg

花咲く.jpg

毎年のように繰り返される営みではありますが、自然の力というものを感じないではいられません。

一方で残念に思うこともありました。
神奈川県鎌倉市に鎮座する鶴岡八幡宮の樹齢約1000年の大銀杏が倒れてしまいました。
http://news.so-net.ne.jp/article/detail/460246/
強風が原因とのことですが、大銀杏が命をかけて世の中に対して何らかのメッセージを放ったのではないかと思っています。

(記:azalea)

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ガス灯のあかり [その他(雑感など)]

賢治の作品には、さまざまなものが出てきます。
「あかり」もその一つだと思います。

洋燈(ラムプ)や電灯は言うに及ばず、ちょっと思いつくだけでも「秋田街道」に出てくる岩手公園のアーク灯、「祭の晩」や「ポラーノの広場」に出てくるアセチレンランプ、「銀河鉄道の夜」や「グスコーブドリの伝記」に出てくるアルコールランプ、「ひかりの素足」に出てくる蝋燭、「家長制度」に出てくる灯明(火皿)・・・ほかにも細かく見ていけばたくさんありそうです。

今回は「床屋」に出てくる「瓦斯の灯」ことガス灯を取り上げてみました。
文語詩〔われはダルケを名乗れるものと〕で「そのとき瓦斯のマントルはやぶれ/焔は葱の華なせば」とあるのも、ガス灯の描写です。
賢治が滞京中の大正時代の東京では街灯や官公庁などではガス灯がずいぶん普及していたようですが、賢治も上野公園や図書館の中などでガス灯の明かりを目にしていたことと思います。
そう思うと、ガス灯の明かりというのはどんな感じなのだろう・・・・と好奇心が湧いてきます。

好奇心を抑えきれず、しばらく前に見に行きました(笑)
今では全国でも限られた場所でしか見ることができませんが、その一つが横浜の桜木町駅のすぐ近くにあります。
(有名な「みなとみらい21」とは反対側です)

ガス灯1.JPG
      全景です

ガス灯2.JPG
      アップです

このガス灯は、1872(明治5)年、横浜瓦斯会社によってガス灯が事業として始められたことを記念して、その発祥の地である横浜市立本町小学校の校地に設置されたもので、校門の脇にあるので誰でもいつでも自由に見ることができます。
ガスのあかりというと、家のガスコンロの炎からもっと青白い光を想像していたのですが、意外と赤っぽく、暖かな感じがしました。
寒い日でしたが、ゆらゆら燃えるガス灯は何とも幻想的な感じがして、いつまで見ていても見飽きませんでした。
とはいえすぐ側にコンビニがあり、繁華街で人通りも多いため、あまり呆然と立ちつくしてガス灯を眺めていては、このご時世では不審者と間違われて警察に通報されかねないかも・・・と思い、名残惜しかったのですが適当なところで帰ってきました。

(記:azalea)
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嘉内忌と「注文の多いロールケーキ」 [その他(雑感など)]

2月8日は保阪嘉内の命日、嘉内忌です。
嘉内は1937(昭和12)年2月8日に亡くなっていますので、逝去後73年が過ぎたことになります。

嘉内をしのんで何か・・・と思い、前から気になっていたプティ シュシュ タナカの「注文の多いロールケーキ オリザ」を食べてみることにしました。

箱.jpg
これが箱です。
林風舎の許諾を得て賢治のシルエットがあしらわれています。

また、側面には
  賢治さんの作品にはよく西洋料理が登場します。
  当時珍しかった洋菓子も良く知っていました。
  チョコレイトやキャラメルは登山や散策に持参していたようです。
  賢治さんがもし田中さんのサブレやロールケーキを食べていたなら
  新しい作品が出来ていたかもしれませんね。
との宮澤和樹さんのメッセージも印刷されています。

箱を開けてみると、
本体.JPG
こんな感じです。
一見ごくふつうのロールケーキに見えますが、材料に小麦粉とバターを使わず、小麦粉の代わりに岩手県産あきたこまちの米粉が使われているそうです。
ただし普通のロールケーキよりも柔らかい上に弾力があるので、カットには注意が必要です。
そのため「絹生地・オリザをきれいにカットする為には」というタナカさんからの「注文の多い」説明書が入っています。

さっそくいただいてみると、もちもちした食感で甘さも控え目、後口がとてもさっぱりしています。
農業・食糧政策は迷走中の感をぬぐえませんが、賢治や嘉内の「よい米がたくさん取れるように」という願いを思いうかべながら頂戴いたしました。


(記:azalea)
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八ヶ岳エスペラント館 [その他(雑感など)]

思うところあってエスペラント語について調べていたら、八ヶ岳山麓に「八ヶ岳エスペラント館」という施設があることを発見しました。
八ヶ岳エスペラント館は、日本エスペラント学会によって図書館を中心とする国際語エスペラントの研修所兼資料館として1994年10月に開設されたものだそうで、当直の方がいる日には一般公開もされているとのことです。
もちろん、この施設の建設に関わった日本エスペラント学会の方々は賢治と嘉内のことを意識してこの地を選んだわけではないでしょうが、何となく不思議な縁を感じてしまいます。

詳しくは下記をどうぞ。
http://www.geocities.jp/yatu_domo/


(記:azalea)
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石鳥谷賢治の会板垣寛さん夫婦韮崎訪問 [その他(雑感など)]

11月9日岩手県花巻市石鳥谷町の石鳥谷賢治の会会長の板垣寛さんご夫婦が韮崎を訪問されました。
板垣さんは知人から「友への手紙」を譲っていただき保阪嘉内の故郷を訪問したいとかねてから考えていたところ、大月市の友人を介して連絡があり今回の訪問に至りました。
韮崎市民会館で清水会長と懇談した後、花園農村の碑、保阪嘉内墓所、保阪嘉内生家、保阪庸夫氏宅で賢治からの手紙の見学をされました。
石鳥谷は賢治のゆかりが深い所、板垣さんのお父さん亮一さんは花巻農学校に開設された岩手国民高等学校での宮沢賢治の教え子であり、石鳥谷には1918年4月末から5月にかけて土性調査に訪れた際葛丸川で作った短歌が残されていたり、1928年3月15日から1週間にわたって、石鳥谷町の通称「塚の根肥料相談所」において、多数の農民を対象に肥料相談を行いその企画と準備にあたったのは、元教え子で石鳥谷に住む菊池信一であったことなどの記録が残されています。
またその際、詩「三月」を作っています。
石鳥谷にはその2つの碑が石鳥谷賢治の会の手で建立されていて、その中心になったのが板垣さんです。
会の多彩な活動と板垣さんの熱意に感銘を受け、今後ともアザリア記念会と連帯していくことを約束してお別れしました。
わざわざ韮崎までお越し頂き本当にありがとうございました。
今後の活躍を祈っております。


三月歌碑.jpg
花巻市石鳥谷町道の駅「石鳥谷」構内にある詩三月 詩碑


葛丸歌碑.jpg
花巻市石鳥谷町大瀬川 葛丸ダム湖畔にある葛丸歌碑

葛丸

ほしぞらは
しづにめぐるを
わがこゝろ
あやしきものにかこまれて立つ。
             賢治


_石鳥谷.jpg
賢治先生と石鳥谷の人々 板垣寛著


保阪家にて.JPG
保阪庸夫氏宅にて賢治からの手紙を見学する板垣夫妻


(記:むこうみず)

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心友 私たちの先輩保阪嘉内と宮沢賢治 韮崎北東小心の教育公開授業(その1) [その他(雑感など)]

10月20日(火)、韮崎北東小6学年に標題の授業を行いました。
今回は風の又三郎に扮した向山三樹先生が(写真は銀河の集いを見てください)木枯らしの音と共に登場、続けて保阪嘉内次男の保阪庸夫氏が登場。
保阪嘉内の生涯と宮沢賢治との親交、賢治作品の中の嘉内の姿、賢治からの手紙についてパワーポイントの映像と又三郎、保阪庸夫氏のお話しを交えて進行しました。
「二人の電信柱」の話、「ハレー彗星」の話、賢治から嘉内への手紙「しっかりやりませう」「どうか一所に参らせてください、ただ一人の友よ」や北東小のある駒井村に送られた43通の手紙のこと、「風野又三郎」にある八ヶ岳、富士川の話、「銀河鉄道の夜」の文章の中の嘉内に宛てた手紙の文章と類似する内容のこと、そして保阪嘉内が韮崎北東小の先輩であることなど子どもたちの興味をひく内容ばかりでした。
図書館司書の中山先生の「どんぐりと山猫」のかねた一朗からのでっかい葉書、賢治から嘉内に宛てた手作りの?本物の葉書を紹介しながら賢治作品の紹介。
6年生の先生方の賢治作品の紹介など盛りだくさんの内容でした。
子どもたちは国語で「やまなし」の学習をしていることもありとても興味深く聞いていました。

感想の一部を紹介します。とてもすてきな感想が100枚もあるので何回かにわけて紹介します。


賢治と嘉内の学習をして 韮崎北東小6年  その1

授業参観で賢治と嘉内のことをいろいろと知ることができてとってもよかったです。賢治と嘉内の仲の良さはこの世の中でだれもこえることはできないくらいの仲だと思います。
写真を見てもなんとなく顔も似ているなと思います。しかも兄弟みたいにも見えてきます。嘉内さんが山梨県韮崎市出身なので僕たちのほこりでもあるし自慢でもあります。賢治さんの作品を見てみたくもなるし読んでみたくもなります。今度賢治さんと嘉内さんの事をもちょっと調べてみたいです。
(Tくん)


今回の授業を受けてぼくは知らないことがたくさんありました。まず最初は賢治さんと嘉内さんは遠く離れていてもずっと心友だったことです。次は手紙です。賢治と嘉内が何通も何通も手紙を送り返していたことです。とくに賢治が嘉内に何回も同じ事を書いて送っていたことです。風の又三郎の話も聞きやすくわかりやすくてよかったです。今度から宮沢賢治の本をたくさん読んでみたいと思いました。もっと賢治と先ぱいの嘉内が好きになりました。
本当に受けてよかったです。
(Oくん)


私は賢治と嘉内の関係を知って遠く離れた所でも文通をしていることに深い友情を感じました。それに韮崎市民の人が賢治さんと深い友情を築きあげたことに、同じ韮崎市民でありそう遠くない所で世の中を平和にしようとしていたことにほこりを感じます。また、自分もそのように生きていけたらどれほどいいかと感じました。さらに保阪嘉内さんの母校がわが韮崎北東小であることにとてもおどろきました。賢治さんが書いた雨ニモマケズの通りに世界の人々が生きていけば幸せになると思います。賢治さんと嘉内さんの考えていたことがとてもよくわかった気がします。
(Yさん)


私は賢治さんと嘉内さんの事は知っていたけど知らないこともあったのでとても勉強になりました。たとえば「アザリア」。初めて聞いたときに「どっかの国の村かな」と思いました。でも実は本でした。ほかにも嘉内さんが書いた電信柱の絵や賢治さんからの手紙など二人のことを知っているようで知らないことがたくさんありました。
先生たちの話を聞いて賢治さんの本は賢治さんの心なのではないかと思いました。理由はそうでなくては嘉内さんへの手紙の内容とかは書かないからだと思います。伝えたいこと、心そのものを文にあらわしたもの。そんな物なんじゃないかと思いました。
(Mさん)


司書の中山先生、後ろは保阪庸夫氏.JPG
      司書の中山先生、後ろは保阪庸夫氏

多くの保護者や地域の方が参観しました.JPG
      多くの保護者や地域の方が参観しました

このような授業も今年で3回目で定着しつつあります。私たちの先輩保阪嘉内と賢治のことを学んだ子どもたちはますます賢治作品を好きになり、その中に嘉内とめざした「ほんとうの幸せ」「世界全体の幸せ」を感じ取ることでしょう。

山口先生のおすすめ注文の多い料理店.JPG
      山口先生のおすすめ注文の多い料理店

山本先生おすすめグスコーブドリの伝記.JPG
      山本先生おすすめグスコーブドリの伝記

浅川先生おすすめセロひきのゴーシュ.JPG
      浅川先生おすすめセロひきのゴーシュ


(記:むこうみず)
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ブログのアクセスが30000を突破 [その他(雑感など)]

本日(2009年9月26日)に、ブログのアクセスが30000を突破しました!

2007年9月21日にブログを立ち上げ、2008年5月20日にアクセスが10000を突破し、そして2009年1月14日に20000を突破、そしてこのたび30000を突破。
多くのアクセスといただきありがたく思います。

これからもブログを通じて、さまざまな情報をお伝えしていきたいと考えていますので、今後ともどうぞよろしくお願い致します。

(記:azalea)
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宮沢賢治検定 [その他(雑感など)]

今月は夏休みということで(?)、すっかり更新をサボってしまいました。
そのうち、むこうみず事務局長からビッグニュースの発表があることと思いますので、私は小ネタ(笑)でつないでおくことにします。

最近、いろいろな検定がありますが、数日前にたまたまこんなのをみつけました。
宮沢賢治検定!



宮沢賢治検定 powerd by けんてーごっこ

宮沢賢治検定はほかにもいくつかありますが、これはその中でもよくできているように感じました。
よろしければお試しになってみてください。


(記:azalea)
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望月善次氏  「賢治の周辺(その一)保阪嘉内の短歌」を盛岡タイムスに連載 [その他(雑感など)]

山梨県甲府一高(前身は旧制甲府中学で保阪嘉内の母校)出身で岩手大学宮沢賢治センターの副代表も勤める望月善次氏が盛岡タイムスで連載を始めました。
望月氏はこれまで同紙に「啄木の短歌、賢治の短歌」(2008年4月1日~2009年4月7日=147回)やその前の連載「賢治の歌(2005年4月1日~2008年3月16日=1050回)」を連載してきましたがそれに続くものだそうです。
望月氏とは先日盛岡訪問でお会いしてその後「是非保阪嘉内の短歌について扱いたい」との申し入れがありました。
保阪嘉内の後輩である望月氏が取り上げることは願ってもないことで保阪庸夫氏も快諾いたしました。
望月善次氏は1942年山梨県生まれ。甲府一高・東京教育大学文学部 ・ 同大学院教育学研究科(修士課程)終了後、東京都立江戸川高校(定時制過程)を経て、岩手大学教育学部に勤務、同大教授(その間、同付属中学校長、学部長兼任)を歴任し、現在は同大名誉教授 ・ 特認教授であるとともに、盛岡大学 ・ 同短期大学部学長を勤めています。
啄木や賢治の短歌を中心とした詩歌教育研究、国語科教師教育研究がご専門で、全国大学国語教育学会理事長 ・ 会長、国際啄木学会副会長、宮沢賢治学会イーハトーブセンター副代表などの要職をつとめました。
原則として毎週火、木、土掲載だそうです。
望月氏の連載についての思いはホームページで見ることが出来ます。
楽しみに見ていきたいと思います。アザリア記念会としても盛岡タイムスを購読することにしました。
興味があったらご覧下さい。
http://www.morioka-times.com/news/2009/0904/09/09040902.htm

望月氏.jpg
       望月氏


(記:むこうみず)
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今日は嘉内忌 [その他(雑感など)]

今日は、嘉内忌。
保阪嘉内は、昭和12年(1937年)の2月8日の早朝、この世を去りました。
享年41。
満40歳と4か月弱。
まだこれから・・・という壮年期での逝去でした。

青年期から「なすべき事を果して一刻も早く自然に還る」という早世論を唱えてきた嘉内の最期の言葉は、「人は皆、こうして自然に還ってゆくのだ」であったといいます。
一方、その前月に見舞いに訪れた友人に、「思えば俺の一生は、農学を学ばんとして成らず、農村伝習所を興さんとして成らず、農村工場を建てんとして成らず、失敗の連続であった。若し此の病を克服出来れば再度上京して研究を完成し、農村復興の資金を作る。その時にはお互に頑張ろうではないか」と語ったという話も伝えられており、最後まで心の中では夢を捨てずいたこともうかがえます。

末期の嘉内は、何を考えたのでしょうか。
そんなことを考えていたら、風が「どどう」と吹いてきました。


(記:azalea)
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