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岩手大学宮澤賢治センター第95回定例研究会 [研究に関すること]

いつも御案内をいただいていますが、95回になるのですね。
もしかしたら100回の時には記念して大規模に行われるのでは・・・と何となく期待してしまいます。
研究会は会員でない方の参加も大歓迎とのことです。

開催日:2017年7月21日(金)
時 間:17:00~18:00
講 師:小島 聡子 氏(岩手大学人文社会科学部准教授・日本語学)
演 題:賢治童話の言葉遣いについて ~標準語と方言のはざまで~
会 場:岩手大学農学部1号館2階1号会議室
司 会:大野眞男(当センター代表)

  ★終了後、希望者によりミニ茶話会を予定しています
   (18:00~19:00 於同階小会議室1)。
  ★定例研究会は、ほぼ2ヶ月に1回のペースで開催しています。

同センターウェブサイト
http://kenji.cg.cis.iwate-u.ac.jp/index.html


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冬季セミナー in 東京 「宮沢賢治からのメッセージ」に参加して [研究に関すること]

宮沢賢治学会イーハトーブセンター冬季セミナー in東京 「宮沢賢治からのメッセージ」が12月4日(日)の午後に東京都立川市で開催されました。
何とか都合がついたので、私もセミナーに参加してきました。
立川に向かう中央線の車窓からは、富士山がきれいに見えました。

3月11日の震災で「雨ニモマケズ」が被災地の人々を励ます言葉として広まったことを踏まえ、宮沢賢治からのメッセージの意味を改めて考えてみようというのが今回のセミナーのテーマでした。
会場は200席弱くらいの感じのホールでしたが、セミナーが始まる頃にはほぼ満席になっていました。
そこここで久々に顔を合わせた人たちが挨拶を交わしたり、近況を伝え合っている姿も見られ、ちょっとした同窓会のような雰囲気もありました。
それだけ広範囲から、また万障繰り合わせて多くの人が参加をしたということだと思います。
私も会場ではひさびさにいろいろな方にお目にかかることができました。

セミナー表紙.jpg

第一部は、入沢康夫氏の講演「『雨ニモマケズ』と宮沢賢治」。
まずは「雨ニモマケズ」の受容についての話。谷川徹三・中村稔両氏の見解を例に「雨ニモマケズ」は人によって評価が分かれる作品で、「雨ニモマケズ」への抵抗感から賢治の他の作品を読む機会を失っている人があるのは惜しまれるといったことが語られました。

入沢氏もはじめは「雨ニモマケズ」が好きになれなかったとのことですが、この作品が綴られた背景を知ることによって見方が変わっていったそうです。次に賢治の昭和6年の動静や手帳の文言などを元に、どういう状況で「雨ニモマケズ」が手帳に記されるに至ったか。また、「雨ニモマケズ」という作品、特に「丈夫ナカラダヲモチ」という一文は病気に苦しんだ賢治の後半生を考えると、「今度生まれてきたらこんなふうに生きたい」という賢治の悲願、切実な祈りが込めたれたものであるといったことが語られました。

そして、最後に詩としての「雨ニモマケズ」について二点言及されました。一点目は、「雨ニモマケズ、風ニモマケズ・・・」と連用終止の文が次々と続いていくことによる〝詩としての形式美〟が見られることで、これは賢治がいろいろな詩形を試みる中で錬磨されていった技法を使った〝不思議な仕掛け〟になっていることが示されました。二点目は、「雨ニモマケズ」は本来は人をはげます詩ではなく、冒頭の「雨ニモマケズ、風ニモマケズ・・・」という言葉は本来「丈夫ナカラダヲモチ」にかかるものではあるが、その部分が一人歩きして人を元気づけている【註】ということについて。シャルル・トレネのシャンソン「詩人の魂」の歌詞を引かれ、作者が死んでから詩の一節が詩の一部が本体から離れて人を元気づけることはあって然るべきことで、それはある意味では詩人の名誉ではないかと思っていると結ばれました。

1時間弱の講演でしたが、あっという間に終わってしまった感じがし、とても感銘を受けました。
素晴らしいお話しをありがとうございました。

【註】似た例として坂本九の『上を向いて歩こう』を挙げられていました。言われてみればこれも本来は人を励ます歌ではなく、失恋して孤独の寂しさを堪えている歌ですから、本来のテーマとは違うところで歌詞の一部が人を励ます言葉として受け取られているということになりますね。とても分かりやすい説明でした。


第二部は、シンポジウム「『なぜ、いま宮沢賢治なのか』」を考える」。
平澤信一氏(明星大学教育学部常勤教授)の司会で、栗原 敦氏(実践女子大学文学部国文学科教授)、秋枝美保氏(福山大学人間文化学部教授)、富山英俊氏(明治学院大学文学部英文学科教授)の3氏がそれぞれの立場で発表されました。
栗原氏の発表は「〈ブドリ〉の発心―あたり前の民のひとりとして」というテーマでしたが、その中でブドリの死と比較してカムパネルラの死が取り上げられていましたが、カムパネルラの死に対する見解が私のものと近かったことに何となく心強さを感じました。

第三部は、林 洋子氏(女優・クラムボンの会主宰)によるひとり語り「雁の童子」。
今回は楽器を使わず、「声だけでしんしんと賢治の世界に迫る」(プログラムによる)迫力ある語りが披露されました。
記憶力の悪い私は、40分に及ぶ長い話を全部暗誦されているところにすっかり驚嘆してしまいました。


午後5時終了の予定でしたが、熱弁・熱演が続いて終わったのは5時半を回っていました。       
夜に懇親会が予定されており、せっかくnenemuさんにもお声をかけていただきながら大変申し訳ありませんでしたが、この度は欠席させていただき、帰途につきました。
(懇親会の状況は加倉井さんが「緑いろの通信」で紹介されています)
天候にも恵まれ、とても充実した1日となりました。
運営に当たられた事務局の皆様に御礼申し上げます。
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岩手大学デジタルミュージアム [研究に関すること]

岩手大学ミュージアムが、またさらに進化しました。
岩手大学ミュージアムは、単なる一施設としての大学博物館ではなく「岩手大学まるごとミュージアム」をテーマに学内全体がミュージアムとしての機能を持つように考えられたきわめてユニークな博物館です。
その整備については先月末でご退職になった岡田幸助先生の大きなご努力があったことは、先月の記事「岩手大学と31年・・・岡田幸助先生のこと」の中で書かせていただきました。

実は、岩手大学ミュージアムはさらに進化していました。
次の試みはリアルなキャンパスから飛び出した、デジタルミュージアムです。
ネットによって幅広い人々がバーチャルにミュージアムを体験できるようにするとともに、過去のイベントやミュージアムの資料画像などがいつでもどこでも見られるようにしたデジタルアーカイブ機能を持ったサイト「岩手大学まるごとデジタルミュージアム」が2010年3月23日にオープンしました。

岩手大学ミュージアム.jpg
     トップページの画面

サイトは、「宮澤賢治ノ青春キャンパス」「タイムトラベル」「キャンパスツアー」「イベントアーカイブ」の4つから構成されており、賢治・・・いえ「『アザリア』の友たち」ファン(?)にとっては見応え十分です。
「イベントアーカイブ」では、昨年6月に行われた開学60周年記念展示「アザリアの咲くとき」の会場風景と岡田先生のトークがムービーで見ることができます。
展示に足を運ぶことができなかった方は、ぜひムービーでごらんください。

「岩手大学まるごとデジタルミュージアム」のトップページにはこう書かれています。

宮澤賢治には生前、多くの友がいました。
中でも岩手大学の前身である盛岡高等農林学校時代に発行した文芸同人誌「アザリア」の仲間たちは、賢治の人生に多くの影響を与えてくれました。
今も尚、大学のキャンパスには賢治の学び舎だった盛岡高等農林学校の本館や図書館が、農業資料館、ミュージアム本館として残されているほか、自然と親しむ植物園や散策コース、野外彫刻などが「まるごとミュージアム」として自由に見学することができます。
このサイトは、賢治とその仲間たちを中心に、地域に開かれた岩手大学を紹介します。時代を超えて、賢治が友と過ごした青春キャンパスを思う存分体験してください。


入り口はこちらです。
http://digital.museum.iwate-u.ac.jp/top.html
「どなたもどうかお入りください。決してご遠慮はありません」(^^)v


(記:azalea)
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「秩父始原層 其他」に詠まれた岩石・鉱物 ―宮澤賢治の畏友 保阪嘉内の歌稿ノートから― [研究に関すること]

本間論文.JPG
「秩父始原層 其他」に詠まれた岩石・鉱物 ―宮澤賢治の畏友 保阪嘉内の歌稿ノートから―
この論文は埼玉県立自然の博物館 本間岳史氏によるものです。

要旨
宮澤賢治の心の友とも評される保阪嘉内は、大正6年7月、盛岡高等農林二年生の時、秩父見学旅行に参加しその時に詠んだ296首の短歌を「秩父始原層 其他」と題するノートに書き残した。
筆者はこれらの短歌のなかから、岩石、鉱物、地質現象等が登場する154首を抽出し、それらの事象を分類・整理して学術的な説明を加えると共に、当時の巡検案内等も参照してそれらの産出地などについて考察し、嘉内らの足跡をたどった。
また岩石・鉱物・地質現象等の擬人化や性格づけから、嘉内の秩父に対する思い、これらの事象に関する知識や好みを考察し、嘉内の自然科学者としての側面と「文学の素養がある理科系の人間が歌を詠む学術的な効果」を浮き彫りにした。
賢治は嘉内の一年前に秩父を訪れた時に詠んだ「つくづくと『粋なもやうの博多おび』荒川ぎしの片岩の色」という歌は大変有名で歌碑にもなっている。
しかし賢治は岩石・鉱物・地質現象などを詠み込んだ歌は意外に少なく、むしろ秩父の美しい自然景観や、そこに暮らす人々の情景を文学的に表現したものが多い。
嘉内の場合は、同じ結晶片岩を前にしても、自然科学者的な観察所見を前面に出した、やや直接的な表現をしているような印象を受ける。
文学部の学生と理学部の学生のようだ。
このように本文では評している。

嘉内が岩石や鉱物を擬人化したり性格付けをしていることを細かく分析したり、短歌に詠まれた岩石・鉱物・地質現象等の特徴とその産出地を細かく紹介したり大変興味深い。
嘉内の「この山は小鹿野の町も見えずして 太古の層に 白百合の咲く」の歌は「ようばけ」の前に賢治の歌と一緒に刻まれている。

名称未設定-1.JPG
嘉内作製「秩父甘楽地方地質略図」
大正6年のスケッチブックに挟まれていたもの。
同年7月23日から28日の秩父・甲斐・諏訪土性地質研修旅行の折のものと思われる。


■埼玉県立自然の博物館
http://www.shizen.spec.ed.jp/

(記:むこちゃん)
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宮沢賢治と保阪嘉内を学ぶ子どもたち [研究に関すること]

今回は、「宮沢賢治と保阪嘉内」の学習をした子ども達の感想です。

 私が向山先生の話を聞いて分かったことは二つあります。まず一つめは、宮沢賢治さんの友達が駒井に住んでいて、しかも手紙でのやりとりが73通もあったということです。私はこの韮崎にそんなすごい人の友人が昔住んでいたなんてとてもすごいことだと思いました。そして二つめは宮沢賢治さんと保阪嘉内さんがけっこう若くして亡くなっていたことです。宮沢賢治さんは37才で保阪嘉内さんは41才ですごい早く亡くなってびっくりしました。
 最後にわたしが一番心に残った言葉はスクリーンの最後に出てきた言葉で「世界みんなが幸福にならないかぎり個人の幸福はない」という言葉です。
 私はこの言葉を聞いて「宮沢賢治さんはすごくやさしい人なんだなあ」と思いました。そして日本の政治家に宮沢賢治のような人がいたら、日本はもっと豊かでよい国になるのではないかと思いました。 【A】

今日私は向山先生のお話を聞いて、宮沢賢治と保阪嘉内がどれだけ「心の友」だったかということがわかりました。賢治は保阪嘉内に手紙を70通以上おくったのだそうです。いくら遠くにはなれていても手紙で心がつながっていたのです。とてもすばらしいことだと思いました。わたしもそのような「心の友」をいつかつくりたいなあ、と思いました。
 賢治が書いた作品はどれも空想がすばらしいと思います。私は「ツエねずみ」という本を読みましたがとてもおもしろかったです。
 先生方が紹介した本も一度読んでみたいなあと思っています。
 今日していただいたお話は一生忘れません。このお話を思い出しながらこれからの国語の勉強、「やまなし」にいかしていきたいなあと思いました。
 今日のお話は本当に勉強になったお話でした。 【B】
 
 「へえ、そうなんだあ」わたしは何回もそう思いました。その中でも宮沢賢治の友だちが駒井に住んでいたことがとてもびっくりしました。
 また宮沢賢治は4年間教師になっていたそうです。そのあと作家になり有名な「雨にも負けず」や「銀河鉄道の夜」などたくさんの作品をだしたそうです。 宮沢賢治と保阪嘉内の出会いの場所は岩手県の農学校だったそうです。
 山梨県に住んでいた保阪嘉内はこう水をなんとかしたくて岩手県の農学校に入りほかにもいろいろなことを学びました。
 今日の会はとてもいい勉強でした。宮沢賢治と保阪嘉内は心の友ということがわかりました。私も仲良しの友達がいるので心の友と言えるような友達にしたいです。 【C】

このような感想を持った子ども達。「やまなし」の学習や賢治作品を読み進める中で更に自分なりの賢治像をつかんでいきます。


教室の掲示 その1


教室の掲示 その2

■この記事は実行委員の向山三樹氏から提供いただきました。


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宮沢賢治と保阪嘉内を学ぶ子どもたち (その1) [研究に関すること]

私は保阪嘉内の母校韮崎北東小(旧藤井小)にこの4月から勤務しています。
学校の住所は韮崎市藤井町駒井にあり嘉内の生家もすぐ近くにあります。
これも何かの縁だと思い、子どもたちに賢治と嘉内の理想を伝えていきたいと思っていました。

全国の小学生の6割は光村図書の教科書を使っています。6年下には賢治の「やまなし」 と伝記物語として畑山博の「イーハトーブの夢」が載っています。
10月には全国の小学生が一斉に賢治のことを学んでいます。
私は「賢治と嘉内についても学んでもらいたい」と思い6年生の担任と相談して授業に協力させてもらいました。(現在は6年担任ではないので)
その中での取り組みと子ども達が捉えた「賢治と嘉内」について何回かにわけて報告したいと思います。

授業の導入では6年生の3クラスの子どもたち全員に私が製作した「心友 宮沢賢治と保阪嘉内」のパワーポイントを見てもらいました。保阪嘉内の生涯、賢治との交友、アザリアの発刊や岩手山登山、しっかりやりましょうと賢治が嘉内に21回書いた手紙、そして二人の理想は「世界全体が幸福にならないかぎり 個人の幸福はありえない」という共通の考えがあったことを紹介しました。
そして図書館司書の先生が賢治の本の紹介「どんぐりと山猫」の金田一郎宛てのはがきも大判で紹介されました。そして3人の担任が自分が好きな賢治作品「注文の多い料理店」「雨にも負けず」「やまなし」について語りました。ゲストとして保阪嘉内の長男善三氏もお話をされました。
さて子どもたちは学習の中でどんなことを学んでいったか。少しずつ紹介していきます。


韮崎北東小校舎


光村図書 国語 6年下


賢治関係の本棚

■この記事は、実行委員の向山三樹氏から提供いただきました。
韮崎北東小学校のブログもごらんください!
http://nirasakihokuto.seesaa.net/


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河本義行の遺品・遺稿の保存と修復 [研究に関すること]

「アザリア」刊行から90年……。
時の流れはさまざまなものを風化させていきますが、紙の劣化も招きます。
図書館・文学館そして文書館……といった施設に関わりのある方や紙資料の保存に関心のある方なら私が何を話題にしようとしているのか、既にお気づきのことと思います。
それは酸による紙の劣化、スローファイヤーと呼ばれる現象です。
かつて、洋紙を作る際にインクのにじみを防ぐために硫酸アルミニウムを混ぜていました。
ところが、この硫酸アルミニウムを含んだ紙は、その酸がパルプの繊維を壊す性質を持っているため、時間がたつと紙がぼろぼろになってしまうのです。
日本では、明治時代の後期から昭和20年代ごろまでに生産された紙に特に顕著に見られる現象です。
火事のよう一気に資料を灰にしてしまうわけではありませんが、じわじわと資料を蝕んでいき、気が付いた時にはボロボロ……。
酸による劣化は、紙資料にとって生活習慣病のように恐ろしいことなのです。
(その点、和紙は硫酸アルミニウムのような物質を含んでいないのでスローファイヤーの心配はありません)

「アザリア」の友たちの貴重な遺品や遺稿の中にもスローファイヤーは進行しています。
保阪嘉内の遺稿や遺品も酸による劣化が進んでいるものや、心ない人によって手荒く扱われたことによる破損がたくさんあります。
こうした劣化や破損が目立つ資料の保存は、私たちにとって大きな課題となっています。

鳥取では、紙資料修復家の秦博志さん(鳥取県西伯郡南部町在住)が河本緑石研究会の依頼を受けて河本義行の遺品・遺稿の修理と保存処理を行っているそうです。

去る10月28日(日)、文字・活字文化の日を記念して、秦さんの講演会が鳥取県立図書館で行われました。
詳しくは、鳥取県立図書館のサイト
http://www.library.pref.tottori.jp/event/kouenkai-ryokuseki.html
をご覧ください。
(質疑応答の時間は、緑石研究会のPRの時間のようになったそうですが……。)

河本緑石の遺品・遺稿の修理と保存処理については、秦さんのブログ「HATA STUDIO」に画像入りで詳しく紹介されています。
賢治から贈られた『春と修羅』『注文の多い料理店』、『大空放哉伝』の自筆原稿、そして「アザリア」などの状況を見ることができます。
(「アザリア」については新しい発見もあります!)
http://hatastudio.exblog.jp/

河本緑石研究会については下記をご覧ください。
http://www.city.kurayoshi.tottori.jp/p/gyousei/div/kikaku/sankaku/3/3/6/


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