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賢治書簡が入札に! [作品に関すること]

今年度の明治古典会七夕大入札の目録が届きました。
神田神保町にある東京古書会館を会場に定期的に行われているオークションですが、稀覯本はもちろん直筆の原稿や書簡などもたくさん出品されます。
文学館に勤務していたころは毎年展観にでかけて入札を依頼していたのですが、たいてい注目される〝目玉〟が出品されています。
今回の目玉は、どうやら宮沢賢治の書簡のようです。

カタログ.jpg

画像は目録の28頁です。「宮沢賢治の詩の世界」にもこの件に関する記事がありますが、出所が違うのか目録の体裁が手元のものと違っています。

上段は『春と修羅』。右側のものは最低落札価格50万円、左側のものは最低落札価格78万円となっています。
写真で見る限りでは右側のものの方が状態が良さそうに見えますが、実際はやはり実物を手にとってみないとわかりません。
そのため、入札する、しないにかかわらず誰でも実物を手にとって見られる一般プレビュー(下見展観)が行われます。(今年は、7月6日(金)午前10時~午後6時と7月7日(土)午前10時~午後5時)
ただし、個人では入札はできません。
入札したい場合は、全国古書籍商組合連合会(「日本の古本屋」)加盟の古書店に依頼して札を入れてもらいます。
そして運良く(?)落札できた時は、その古書店を通じて商品を購入するという形になるのです。
意外と安く落札できる時もあれば、もう一声足りなかったという時も、あるいは予想を上回る高値が付いていて全く及ばずという時もあります。

では、いよいよ下段の賢治書簡ですが、これは大正14年(1925)12月20日岩波書店店主の岩波茂雄宛書簡(新校本・書簡214a)です。
Webサイトの説明文には「岩波茂雄宛 ペン書ウラ表使用計48行 他に謄写刷詩篇1枚 大14・12・20付 封筒付『春と修羅』刊行の意図、その流布の実態から残りの詩集と貴店哲学書を取替えてくれないか、と。現筑摩の全集にカラー版巻頭に影印されている。」とあります。
封筒、同封されていた謄写版印刷の詩稿「鳥の遷移」とセットで、気になる最低落札価格は・・・・500万円です。
賢治書簡の出品は滅多にないだけに高値が付くことは予想されますが、いったいいくらで落札されるのでしょうか。
開札は7月8日に行われます。

このほかにも書画などの美術品も含めたくさんの品々が出品されており、博物館や美術館の展示とは違って明るいところで、しかも希望すれば手にとって見られるのですから、近くの方は古書店の散策も兼ねてでかけてみる価値は十分にあるかと思います。
詳しくは、明治古典会のWebサイトをご覧下さい。 

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11月3日 [作品に関すること]

11月3日。
宮沢賢治が『雨ニモマケズ』として知られている作品を手帳に綴った最初の頁の右上には、大きく「11、3、」と日付が書かれています。
もし、昭和6年(1931年)の11月3日に宮沢賢治が『雨ニモマケズ』を手帳に記したとしれば、今日で80年が経ったことになりますね。
とはいえ、『雨ニモマケズ』の本文は黒鉛筆、「11、3、」の日付は青鉛筆で書かれていますので、この日付は後から書き込まれたものかも知れません。
でも、たとえ後から書き込まれたものであるにせよ、『雨ニモマケズ』として綴られた言葉と、「11、3、」という日付は何らかの関わりがあるとみてよいのではないでしょうか。
実際に手帳に文字を書き付けた日なのか、あるいは着想を得た日なのか・・・。

11月3日は現在では文化の日ですが賢治の時代には明治節であり、賢治がこの日に『雨ニモマケズ』を綴ったのは西田良子氏が説かれているように田中智学が唱えた「一年の魂とせよ明治節」に触発されたものであるのかも知れません。

それはさておき―――


自分に今、何ができるか・・・。
「サウイフモノニワタシハナリタイ」と祈り、願うことしかできないかも知れない。
そのためにも、間違った情報に振り回されないように少しでも「ヨクミキキシワカ」りたい、と思うのです。
この国の現状を思う時、80年も前に綴られた言葉が心に響いてきます。

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そのとき、トブン。 [作品に関すること]

賢治さんの童話「やまなし」。
教科書にも載っているので、ご存じの方は多いと思います。

この童話の後半(二、十二月)に、〝やまなし〟が小川に落ちてくるシーンがあります。
 蟹の子供らは、あんまり月が明るく水がきれいなので睡(ねむ)らないで外に出て、しばらくだまつて泡をはいて天井の方を見てゐました。
『やつぱり僕の泡は大きいね。』
『兄さん、わざと大きく吐いてるんだい。僕だつてわざとならもつと大きく吐けるよ。』
『吐いてごらん。おや、たつたそれきりだらう。いゝかい、兄さんが吐くから見ておいで。そら、ね、大きいだらう。』
『大きかないや、おんなじだい。』
『近くだから自分のが大きく見えるんだよ。そんなら一緒に吐いてみよう。いゝかい、そら。』
『やつぱり僕の方大きいよ。』
『本当かい。ぢや、も一つはくよ。』
『だめだい、そんなにのびあがつては。』
 またお父さんの蟹が出て来ました。
『もうねろねろ。遅いぞ、あしたイサドへ連れて行かんぞ。』
『お父さん、僕たちの泡どつち大きいの』
『それは兄さんの方だらう』
『さうぢやないよ、僕の方大きいんだよ』弟の蟹は泣きさうになりました。
 そのとき、トブン。
 黒い円い大きなものが、天井から落ちてずうつとしづんで又上へのぼつて行きました。キラキラツと黄金のぶちがひかりました。
『かはせみだ』子供らの蟹は頸をすくめて云ひました。
 お父さんの蟹は、遠めがねのやうな両方の眼をあらん限り延ばして、よくよく見てから云ひました。
『さうぢやない、あれはやまなしだ、流れて行くぞ、ついて行つて見よう、あゝいゝ匂ひだな』
 なるほど、そこらの月あかりの水の中は、やまなしのいい匂ひでいつぱいでした。


今回は、「そのとき、トブン。」の〝トブン〟という音について考えてみました。
普通なら「ドブン」とでも書きそうなところを、賢治さんは「トブン」と表現しています。
いったいどんな音なのでしょう?

本物のやまなしは手に入らないので、同じくらいの大きさのジャガイモを使って、いろいろ試してみました。
まあ、いろいろ試す・・・といっても落とす高さを変えるだけしかやりようはないのですが、
これ

は「パチャン」という感じで音が軽すぎますし、
これ

だと逆に「ドボン」という感じで重すぎるような気がします。

こんな感じ、

あるいは、こんな感じ

ではどうでしょう?
試した中では一番「トブン」に近いような感じがするのですが・・・。
(落とした高さは水面から70~80センチくらいといったところです)

でも、これはあくまでも水の外側にいる人間の聴く音であって、水の中の蟹たちには違った音に聴こえるでしょうし・・・。
どちらの立場で聴くかによっても違ってきそうですね。

うーん、賢治さんの擬音は難しいですねぇ(-_-;)
そこが、賢治童話の魅力の一つでもあるのですけれど。


水に果実が落ちる音・・・といえば、こういうエピソードもありますね。
賢治さんが農学校の教師をしていた時の教え子の一人である照井謹二郎さん(故人)の話です。
妹・トシさんの亡くなる1か月ほど前のこと。
二年生の秋、十月の小春だったが、先生と二人で、小さな舟で北上川を渡ったことがあった。その途中、先生のポケットからリンゴがポチャンと落ちた。先生は、それが水に沈んでゆくさまがきれいだといって、何度もポチャンを繰り返す。ああ、きれいだといって繰り返す。そのあげく泳がないかといい、自分一人で泳ぎ出す。
(佐藤成『証言 宮沢賢治先生』 47頁)

この時、〝賢治先生〟はリンゴの浮き沈みする様子だけでなく、水に落ちる音も楽しんでいたと思うのです。
もしかしたら、その音がいちばん「トブン」に近いのかも知れません。
(このエピソード以前に「やまなし」の初期形が書かれた可能性もあるので、「トブン」がこのエピソードを反映したものかどうかはわかりませんが・・・)

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「薤露青」について (余談) [作品に関すること]

2回にわたって「薤露青」について、「銀河鉄道の夜」と関連させつつ思うことを書いてみました。
私には、そんな風に思えるのですが、人によっては違うことを思うかもしれません。

ところで、賢治の童話に「カイロ団長」という作品があります。
初めてこの作品を読んだころ(ずいぶん前の話になりますが)は、この「カイロ」とは「カエル」をもじったものだろうと考えていました。

「薤露青」という詩を知ってからは、「カイロ団長」の「カイロ」も「薤露」からきているのかな・・・とも思うようにもなりました。
つまり、〝王さまの新らしい命令〟によってそれまで酷使されていたあまがえると、いばり散らしていたとのさまがえるの立場が一瞬にして逆転してしまうという状況を、「薤露」にたとえたものではないか・・・と。
あまがえるからは、「手紙四」を連想しますし・・・。

でもまあ、今のところは何ともよくわかりません。
やっぱり「カイロ」は「カエル」なのかもしれません(^^;)


風緒 輪(かぜお めぐる)さんのピアノ曲「薤露青」を聴きながら・・・。
アルビレオ.jpg
『Albireo』(1997年,でくのぼう出版。残念ながら廃盤です)より。
「薤露青」は、このアルバムの10曲目に入っています。
ところで、この表紙の写真・・・もしかして〝薤露〟をイメージしたものでは?
(おっと、すっかり〝薤露〟にとりつかれてしまっていますね[たらーっ(汗)]


○追加
「賢治の事務所」の「緑いろの通信 7月号」に、今年の7月17日の「薤露青」が書かれた時間帯の花巻の空の写真が掲載されました。
こちらもぜひご覧ください。
http://www.bekkoame.ne.jp/~kakurai/kenji/news/news201107.htm

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「薤露青」について (その2) [作品に関すること]

前回に引き続き、「薤露青」という詩についての記事です。
今回はこの作品を「薤露青」と名付けた理由について、考えてみました。

「薤露」とは、たとえば『デジタル大辞泉』では、
《薤(にら)の葉の上に置く露は消えやすいところから》人の世のはかないことや、人の死を悲しむ涙をいう語。 また、漢の田横の門人が師の死を悲しんだ歌の中にこの語があったことから、葬送のときにうたう挽歌(ばんか)の意にも用いる。

と説明されています【注1】。

「薤露」を、「人の世のはかないことや、人の死を悲しむ涙」として考えると、妹の死を悼む気持ちとよく合致します。
薄明の空の下で北上川の流れを見つめながら、亡き妹を思う作者の姿が浮かんでくるようです。
詩の中に「薤露青の聖らかな空明のなか」という言葉がありますから、薄明の空の色に「薤露」のイメージを感じたということだと思います。
そして、「銀河鉄道の夜」に出てくる「桔梗いろの空」は、この「薤露青の聖らかな空明」と通じるものだと思います。【注2】。

では、「薤露」とはどういう〝歌〟なのでしょうか。
どんな旋律で歌われていたかまではわかりませんが、歌詞は漢詩として読むことができます。
この詩は『楽府詩集』という詩集に収められており、「薤露送王侯貴人、蒿里送士大夫庶人、使挽柩者歌之。亦呼為挽歌。」といった註が付されています。
つまり、「薤露」は王侯貴人の葬送の際に柩を挽く者が歌うものであり、それゆえこれを〝挽歌〟と呼ぶ」ということになります。
(士大夫や庶民の葬送では、「薤露」ではなく「蒿里」が歌われます)
「薤露」=「挽歌」として考えると、この「薤露青」という詩は、「青森挽歌」「オホーツク挽歌」などトシの死を悼む一連の挽歌ともつながってきます。
そういう意味からも、「銀河鉄道の夜」の創作の動機としてトシの死を考えるのは、最も無理のない自然な見方だと思います。

先に自分の意見を書いてしまいましたが、「薤露」とは、こういう詩です。
薤露歌
              漢  無名氏
薤上露、
何易晞。
露晞明朝更復落、
人死一去何時歸。

読み下すと、
  薤上(かいじょう)の露、
  何ぞ晞(かわ)き易(やす)き。
  露 晞(かわ)けば明朝 更(さら)に復(ま)た落つ、
  人 死して一たび去れば 何(いづ)れの時にか歸(かえ)らん。
となり、意味的には、
  薤の上の露は、
  どうして乾きやすいのだろうか。
  露は乾いてしまっても明朝にはさらにまた新しい露が落ちている。
  けれども人は死んでひとたびこの世を去ってしまえば、
  いったいいつの日にまた帰ってくるだろうか。
という感じになります。
乾きやすい「薤露」よりも人の命ははかないものであるということを歌った詩ですね。


私は賢治が亡き妹を思う詩に「薤露青」と名付けた背景には、この「薤露」という漢詩があったのではないかと思っています。
「銀河鉄道の夜」で語られる〝ほんたうのさいわひ〟を求める生き方は、「薤露青」に示されたはかなくこの世を去った妹を想う悲しみが昇華したものではないでしょうか。
「銀河鉄道の夜」には何が〝ほんたうのさいわひ〟であり、どうそればそれが求められるかは、一見書かれてはいないように見えます。
そのことを〝方法論の欠如〟などと批判する論もありますが、そうではないと私は思っています。
答えは賢治によって示されています。

ほら、「農民芸術概論綱要」の中でも賢治は、
  正しく強く生きるとは銀河系を自らの中に意識してこれに応じて行くことである
  われらは世界のまことの幸福を索ねよう 求道すでに道である

と語っているではありませんか!



【注】
(1)http://kotobank.jp/word/%E8%96%A4%E9%9C%B2
(2)実際の薤露はこんな感じです。(「イーハトーブ・ガーデン」より)

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「薤露青」について (その1) [作品に関すること]

今年は全国的に早い梅雨明けとなりました。
(梅雨入りも早かったですが)
「梅雨明け10日」とよく言いますが、毎日晴れて暑い日が続いています。

先日の七夕の夜には、岩手県陸前高田市の「一本松」の上にきれいな天の川が現れたそうです。
賢治さんからのメッセージか・・・などと、つい考えてしまいます。
http://www.asahi.com/national/update/0707/TKY201107070148.html

さて、今回は『春と修羅』第二集から「薤露青(かいろせい)」という大正13(1924)年7月の日付のある作品を取り上げてみました。
この作品は、実は一度鉛筆で下書稿として書かれ、その後に消しゴムで全文が消されてしまったものです。
一旦は書き上げてみたものの、作品として納得がいかず抹消してしまったものでしょうか。
「薤露青」は、こんな詩です。


一六六
       薤露青
               一九二四、七、一七
みをつくしの列をなつかしくうかべ
薤露青の聖らかな空明のなかを
たえずさびしく湧き鳴りながら
よもすがら南十字へながれる水よ
岸のまっくろなくるみばやしのなかでは
いま膨大なわかちがたい夜の呼吸から
銀の分子が析出される
  ……みをつくしの影はうつくしく水にうつり
    プリオシンコーストに反射して崩れてくる波は
    ときどきかすかな燐光をなげる……
橋板や空がいきなりいままた明るくなるのは
この旱天のどこからかくるいなびかりらしい
水よわたくしの胸いっぱいの
やり場所のないかなしさを
はるかなマヂェランの星雲へとゞけてくれ
そこには赤いいさり火がゆらぎ
蝎がうす雲の上を這ふ
  ……たえず企画したえずかなしみ
    たえず窮乏をつゞけながら
    どこまでもながれて行くもの……
この星の夜の大河の欄干はもう朽ちた
わたくしはまた西のわづかな薄明の残りや
うすい血紅瑪瑙をのぞみ
しづかな鱗の呼吸をきく
  ……なつかしい夢のみをつくし……
 
声のいゝ製糸場の工女たちが
わたくしをあざけるやうに歌って行けば
そのなかにはわたくしの亡くなった妹の声が
たしかに二つも入ってゐる
  ……あの力いっぱいに
    細い弱いのどからうたふ女の声だ……
杉ばやしの上がいままた明るくなるのは
そこから月が出やうとしてゐるので
鳥はしきりにさはいでゐる
  ……みをつくしらは夢の兵隊……
南からまた電光がひらめけば
さかなはアセチレンの匂をはく
水は銀河の投影のやうに地平線までながれ
灰いろはがねのそらの環
  ……あゝ いとしくおもふものが
    そのまゝどこへ行ってしまったかわからないことが
    なんといふいゝことだらう……
かなしさは空明から降り
黒い鳥の鋭く過ぎるころ
秋の鮎のさびの模様が
そらに白く数条わたる


おそらく作者は、橋の上にでも立って遥か地平線まで続いて、薄明の空に続いているような川の流れを眺めながら思いにふけっていたのでしょう。
「賢治の事務所」では天文学的な見地から「賢治の創作の原風景は19時頃から20時頃と判断できるでしょう」と考察しています【注1】。
南十字、プリオシンコースト、マヂェランの星雲、蝎・・・と、一見してわかるように『銀河鉄道の夜』に共通するモチーフがこの詩にはあります。
この詩では「みをつくし」いう言葉【注2】が何度か出てきますが、これは「銀河鉄道の夜」の中の三角標のイメージの原形でもあるような気がします。

そして、この詩には「亡くなった妹」への思いが語られています。
この時期、賢治は大正11年に亡くなった妹のトシさんを追慕する詩をいくつか書いています。
「薤露青」もまた、そうした作品の一つと考えられます。
大正13年は妹・トシの三回忌の年であり、お盆も近づくこの時期、亡き妹への追慕の気持ちが強いものになっていたのかも知れません。

「銀河鉄道の夜」の初期形(第一次稿)が、「薤露青」と同じ大正13年の秋から暮れにかけて執筆されていたとすれば、「薤露青」はその先駆的作品と見ることもできるでしょう。
そう考えると、天沢退二郎氏が述べられているように、妹の死が「銀河鉄道の夜」の創作のモメント(動機)であったとするのはきわめて自然な読みであると思うのです。
「薤露青」で得た着想に、さまざまなエピソードや科学的な知識、自らの宗教論・人生論、亡き妹への思いから熟成されていった死生観……それらを加味して創作した物語が「銀河鉄道の夜」であったのではないでしょうか。
「銀河鉄道の夜」は、そうした〝作品〟として読むべきだと思うのです。

これをジョバンニを賢治自身、カムパネルラを妹・トシに重ねて読んだりすると、兄妹の〝近親相姦伝説〟のような変な誤解まで生まれてしまいます。
ましてや、親友・保阪嘉内との訣別を創作のモメントとし、ジョバンニを賢治自身、カムパネルラを保阪嘉内として、二人の〝同性愛〟的な解釈からこの作品を理解しようとする菅原千恵子氏のような見方には、疑問を感じないではいられません。
そもそも保阪嘉内との訣別というのは小沢俊郎氏による一つの学説に過ぎず、その根拠を検証すれば訣別などなかったと見る方がよほど妥当です。
二人の「訣別」がなかったとすれば、菅原氏の論は前提からして崩れてしまいます。
天沢退二郎氏も言っているように、現実と作品とは厳しく峻別されるべきでしょう。
素材としての現実と作品の中の世界は部分的には重なるところがあったとしても、全体的にイコールではないはずなのですから。
もっと作品を〝作品〟として大切に読んで欲しい・・・と、賢治ファンの一人としては願うばかりです。


【注】
(1)http://www.bekkoame.ne.jp/~kakurai/kenji/history/h4/19240717.htm
(2)澪標。航路を示す標識のこと。
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一〇八八 〔もうはたらくな〕 [作品に関すること]

『春と修羅』第三集に〔もうはたらくな〕という作品があります。


一〇八八
       〔もうはたらくな〕
                    一九二七、八、二〇、
もうはたらくな
レーキをなげろ
この半月の曇天と
今朝のはげしい雷雨のために
おれが肥料を設計し
責任のあるみんなの稲が
次から次と倒れたのだ
働くことの卑怯なときが
工場ばかりにあるのでない
ことにむちゃくちゃはたらいて
不安をまぎらかさうとする、
卑しいことだ
  ……けれどもあゝまたあたらしく
    西には黒い死の群像が湧きあがる
    春にはそれは、
    恋愛自身とさへも云ひ
    考へられてゐたではないか……
さあ一ぺん帰って
測候所へ電話をかけ
すっかりぬれる支度をし
頭を堅く縛って出て
青ざめてこわばったたくさんの顔に
一人づつぶっつかって
火のついたやうにはげまして行け
どんな手段を用ひても
辨償すると答へてあるけ


自分が肥料設計をした稲が天候不順で十分に育たず、とうとう激しい雷雨で倒れてしまった。
天候不順や、激しい雷雨は自然のなせる業であって、稲が倒れたのは決して賢治の肥料設計が悪かったわけではない。
しかし、賢治は肥料設計を自分に依頼してくれた農民たちのところを回り、一人一人に「火のついたやうにはげまし」たり、「どんな手段を用ひても辨償する」と謝るために、今まさに雨の中に飛び出そうとしている・・・。

そんな情景が浮かんできます。
もちろん、作品は作品であって、必ずしも事実そのままではありません。
しかし、ここに綴った自分自身の気持ちには、偽りや脚色などはないだろうと思います。
「何もそこまでしなくても」「そんなふうに思いつめなくても」
賢治さんの悲痛で一生懸命な心境を考えると、ついそんな声をかけたくなるほどです。

実は、先日あるニュースを耳にしたとき、この詩が心に浮かんできました。
それは、K総理が若手議員との飲み会で笑いながら
「お遍路に行きたいな、次の寺が『延命寺』と言うらしいんだよ」
と言ったという話です。
http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/2320116/
そういえば、内閣不信任案の議決の前にも「お遍路」の話が出ていました。
http://www.sankeibiz.jp/macro/news/110603/mca1106030757013-n1.htm

お遍路?
行くところが違うのでは?
少しでもこの国の首相として責任を自覚しているのであれば、行き先は西の方ではなく北の方では?
(もちろん、その場合は「お遍路」ではなく「行脚」ですが)

たとえ自然災害が原因であっても、それを自分の責任だとして受け止め、できることはしようと決意した賢治さんと比較して、ついそんなことを思ってしまいました。

もちろん、「どんな手段を用ひても辨償する」といいつつも、賢治さん個人にはそんな資産はありません。
実家の宮沢家の財力をあてにしての言葉ですから、それには「甘い」「現実無視」といった批判も当然あります。
(借金だらけでお金がない今の日本も似たような状況かも?)
でも、大切なことは「未曾有の・・・」「想定外の・・・」と何事も自然のせいにして逃げるのではなく、自分の責任としてそうした災害に対峙する気持ちを持つことではないでしょうか。
あらためて、そんなことを思いつつ、この詩を読み返しました。

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ウェストミンスター寺院で「雨ニモマケズ」 [作品に関すること]

まもなく震災から3か月になろうとしています。
今朝、テレビから突然「雨ニモマケズ」の朗読が流れてきました。
ロンドンのウェストミンスター寺院で5日に行われた東日本大震災の犠牲者を追悼する式典の中で、復興への願いを込めて宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が朗読されたとのことでした。
(日本語で!)

詳しくはこちらからどうぞ。
http://www3.nhk.or.jp/news/html/20110606/k10013331241000.html
映像もアップされていました。
http://www.youtube.com/watch?v=ma4dEbkcMpI
他局でも放送されていたようですね。
http://www.youtube.com/watch?v=Ltj9sp_lTHA

アメリカに続いてイギリスでも「雨ニモマケズ」がこのように祈りの中で朗読されたことに、賢治さんの大きさを改めて感じます。
「雨ニモマケズ」は世界に通じる言葉・・・なのですね。


(記:azalea)
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おきなぐさ [作品に関すること]

賢治さんの作品には、「おきなぐさ」と題したものが2つあります。
一つは『春と修羅』にも収められている詩。
もう一つは童話です。

童話の「おきなぐさ」は、こんなふうに始まっています。

 うずのしゅげを知ってゐますか。
 うずのしゅげは、植物学ではおきなぐさと呼ばれますがおきなぐさといふ名は何だかあのやさしい若い花をあらはさないやうにおもひます。
 そんならうずのしゅげとは何のことかと云はれても私にはわかったやうな亦わからないやうな気がします。
 それはたとへば私どもの方でねこやなぎの花芽をべむべろと云ひますがそのべむべろが何のことかわかったやうなわからないやうな気がするのと全くおなじです。とにかくべむべろといふ語のひびきの中にあの柳の花芽の銀びろうどのこゝろもち、なめらかな春のはじめの光の工合が実にはっきり出てゐるやうに、うずのしゅげといふときはあの毛莨科のおきなぐさの黒朱子の花びら、青じろいやはり銀びろうどの刻みのある葉、それから6月のつやつや光る冠毛がみなはっきりと眼にうかびます。


おきなぐさは、キンポウゲ科の多年草で学名はPulsatilla cernua
賢治さんの時代にはそこかしこに自生していたことでしょう。
でも、今では環境の変化や乱獲のためにレッドデータブックで絶滅危惧植物Ⅱ類に指定されるほどに野生のものは数が減ってしまい、園芸店などで売られているのは栽培されたものです。
在来種のものは暗赤紫色の黒っぽい花を付けます。
園芸店などでは白や黄色の花のものも見かけますが、それはヨーロッパ原産のものだそうです。 

こちらは我が家のおきなぐさです。
花は、「黒朱子ででもこしらへた変り型のコップのやうに見えます」。

おきなぐさ0.jpg

一見、地味ですね・・・。
でも、「おきなぐさ」の中で「私」と「蟻」は、こんな会話を交わします。
「おまえはうずのしゅげはすきかい、きらひかい。」
 蟻は活撥に答えます。
「大すきです。誰だってあの人をきらひなものはありません。」
「けれどもあの花はまっ黒だよ。」
「いゝえ、黒く見えるときもそれはあります。けれどもまるで燃えあがってまっ赤な時もあります。」
「はてな、お前たちの眼にはそんな工合に見えるのかい。」
「いゝえ、お日さまの光の降る時なら誰にだってまっ赤に見えるだらうと思います。」
「さうさう。もうわかったよ。お前たちはいつでも花をすかして見るのだから。」


蟻にはおきなぐさがどんなぐあいにみえるのでせうか・・・?
ちょっと試してみました。

こんなぐあいや、

おきなぐさ1.jpg

こんなぐあい、

おきなぐさ2.jpg

あるいはこんなぐあいにも見えるのでせうか?

おきなぐさ3.jpg

賢治さんもきっと、こんなふうに花を日光にすかして見ていたのかもしれませんね。
誰でも思いつきそうで、なかなかできないことだと思います。
でも、こうして見方を変えることでまったく違ったふうに見えるとは、驚きです。

おきなぐさ4.jpg

少し時間が経って、今は我が家のおきなぐさはこのようになっています。
白髪のおじいさんの風貌にかなり近づいてきました。
もう少ししたら、
 春の二つのうずのしゅげの花はすっかりふさふさした銀毛の房にかはっていました。野原のポプラの錫いろの葉をちらちらひるがへしふもとの草が青い黄金のかゞやきをあげますとその二つのうずのしゅげの銀毛の房はぷるぷるふるへて今にも飛び立ちさうでした。

といった感じになるでしょうか。

ちなみに「おきなぐさ」の花言葉には、「何も求めない」「背信の愛」「告げられぬ恋」などがあるそうです。
『春と修羅』に収められた詩「おきなぐさ」を書いた頃の賢治は、ある女性に恋をしていたという説があります【注】

風はそらを吹き
そのなごりは草をふく
おきなぐさ冠毛の質直
松とくるみは宙に立ち
  (どこのくるみの木にも
   いまみな金のあかごがぶらさがる)
ああ黒のしやつぽのかなしさ
おきなぐさのはなをのせれば
幾きれうかぶ光酸の雲


「ああ黒のしやつぽのかなしさ」というおきなぐさの花の形容には、もしかしたら何かそういう意味も込められているのかもしれませんね。

【注】 たとえば、澤口たまみ『宮澤賢治 愛のうた』(2010年、盛岡出版コミュニティー)。


(記:azalea)
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ワシントン大聖堂に響く「雨ニモマケズ」 [作品に関すること]

4月14日の朝、たまたまつけていたテレビのニュースで、震災から1か月となった4月11日にアメリカのワシントン大聖堂で行われた「日本のための祈り」という礼拝の様子を報じていました。

この礼拝は、キリスト教は言うに及ばず、神道・仏教・ヒンズー教・イスラム教・ユダヤ教など宗派を超えた世界の主要な宗教の代表者が集まって、震災の犠牲者を追悼するとともに復興への祈りを捧げたもので(写真はこちらからご覧ください)、ワシントン大聖堂のサミュエル・ロイド3世首席司祭が祈りを捧げたあと、何と「雨ニモマケズ」が朗読(もちろん英語で)されたそうです。

「雨ニモマケズ」は、これまで詩人や研究者からさまざまに評価されてきました。
ずいぶん酷評されたこともありました。
そして、さまざまなパロディも作られてきました。
  「○○ニモマケズ/××ニモマケズ・・・」
  「雨ニモマケ/風ニモマケ・・・」
  「ヨクミキキセズワカラズ/ソシテワスレル・・・」
  「サウイフモノニ/ワタシハナリタクナイ」
日ごろ多くの人たちに笑いの対象にさえされてきた、「雨ニモマケズ」。
それがこの未曾有の災害の中で多くの人を勇気づけ、こうした宗派を超えた国際的な祈りの中で朗読される・・・。
震災を機に、「雨ニモマケズ」を見直したという人も多いと聞いています。
「雨ニモマケズ」が載っている文庫本の『宮沢賢治詩集』も、震災後にずいぶん売れているともいいます。
こうした一連の報道を読んで、まるで普段は周囲の人から馬鹿にされながらも、実は大切な仕事を成し遂げていた虔十の姿を思い浮かべました。
「雨ニモマケズ」という作品自体が身(?)をもって、作者自身が「サウイフモノニ/ワタシハナリタイ」との願いを込めた「デクノボー」の姿を示しているようにも思いました。


雨ニモマケズ(青空文庫)
英訳:Ame_ni_mo_Makezu(Wikipedia)
雨ニモマケズ (Ame ni mo Makezu) 英語版朗読(YouTube)
ニュース映像(NNN。残念ながら「雨ニモマケズ」の話はありません…)


(記:azalea)
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