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文化財レスキュー [ゆかりの地]

このたびの震災では数多くの文化財も被災し、壊れたり失われたりしました。
それでも可能な限りは保存処理をして残していけるように、文化財のレスキューが行われています。
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/iwate/news/20110608-OYT8T01238.htm?from=popin

この陸前高田市の事例は、しばしば新聞やテレビで報じられていますので御覧になった方も多いと思います。

賢治さんの故郷、岩手県ではほかに文化財にどのくらいの被害があったのでしょうか?
国指定文化財に限っても、このくらいの被害が出ているそうです。
http://www.iwate-np.co.jp/cgi-bin/topnews.cgi?20110504_10
岩手大学農学部(旧盛岡高等農林学校)旧本館、毘沙門堂、旧東北砕石工場・・・・
賢治さんゆかりの場所も、散見します。
大きな被害ではないかも知れませんが、当然修理は必要になるでしょう。
さらに県指定、市町村指定の文化財となると、もっともっと数は増えていきます。

もちろん、指定を受けているものだけが文化財ではありません。
指定を受けていないものも入れると、大変な数になると思われます。

賢治さんゆかりの場所や、資料が一つでも多く守られ、後世に残されることを願ってやみません。

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韮崎市民交流センターの愛称・ロゴデザイン募集 [ゆかりの地]

今年9月にオープン予定の韮崎市民交流センターの愛称とロゴデザインを募集中です。
あなたも応募してみませんか?

(以下、韮崎市のホームページより応募要項を転載します)


市では、JR韮崎駅前の旧ショッピングセンタールネスを改修し、「韮崎市民交流センター」として現在整備をすすめています。市民交流センターは、市民の生涯学習・文化芸術活動の発信、活動支援、会議室の提供のほか、センター内の公民館、図書館、子育て支援センターなどとの連携を通じ、あらゆる世代が集い、交流できる市民主体の協働のまちづくりの推進を目指す施設です。また、音楽スタジオ、郷土の偉人資料館、サッカーミュージアムなどの市民活動の拠点として、まちづくりの活性化やまちなかの賑わいの創出が期待されるところです。 本年9月にオープン予定のこのセンターが、身近で親しまれる施設となるよう、愛称及びロゴデザインを募集します。

■募集内容
韮崎市民交流センターの愛称及びロゴデザイン

■応募資格
特にありません

■募集期間
平成23年3月1日(火)~5月16日(月)
※郵送の場合は当日消印有効

■応募条件
愛称は、短い表現で、覚えやすく親しみやすいものであること。
・ロゴデザインは、A4版の白紙に1点のロゴデザインをカラーで描いてください。表現方法は問いません。
・応募作品はともに、自作で未発表のものであること。
・お一人で愛称・ロゴともに何点の応募をいただいても構いませんが、1応募につき1点としてください。

■応募方法
次の事項を記入の上、はがき、封書、FAX、電子メール、持参により下記までご応募ください。(はがき、FAXは愛称のみ可)①愛称(ふりがな)またはロゴデザイン②愛称またはロゴの趣旨・コンセプト(100文字以内)③氏名(ふりがな)④郵便番号及び住所 ⑤電話番号⑥年齢⑦勤務先(職業)または学校の名称及び所在地(韮崎市に住所を有しない方のみ)
なお、主な施設概要と階ごとの平面図はこちらです。


○  住所:韮崎市水神1-3-1 企画財政課 企画推進担当 宛
○  FAX:0551-22-8479
○  メールアドレス:kikaku@city.nirasaki.ne.jp

■選考条件
庁内に設置する選考委員会において、平成23年5月中に選考を行います。

■結果の公表
広報にらさき及び韮崎市ホームページ等で公表します。

■入選賞品
◆最優秀賞 各1名:商品券(1万円相当)、記念品(特産品:発泡性赤ワイン・ヴァン穂坂、果実ジャム・ビジュード穂坂詰合せ)
◆優秀賞  各2名:商品券(3千円相当)、記念品(特産品:発泡性赤ワイン・ヴァン穂坂、果実ジャム・ビジュード穂坂詰合せ)

■その他
・採用する愛称及びロゴデザインに関する著作権・使用権等一切の権利は、韮崎市に帰属するものとします。
・応募作品は、返却しません。
・応募者の個人情報は、この愛称及びロゴマークに募集以外の用途への使用及び外部への公表(入選者を除く)は行いません。
・応募内容に不備がある場合は、無効とする場合があります。


応募するかしないかは別として、平面図を見ながらどんな施設になるか想像するのも楽しみの一つですね。


(記:azalea)
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江ノ島を訪れた嘉内 [ゆかりの地]

昭和7年の3月20日、保阪嘉内は江ノ島を訪れました。
当時の嘉内は東京の東久留米の浄牧院にあった日本青年協会の武蔵野道場で青年教育に励んでいました。
そのころの協会の機関誌「アカツキ」を見ると、嘉内が書いたものらしい文章が載っています。

◎武蔵野道場は保阪嘱託主任として、青木主事、氏家嘱託が一週一日宛必ず出張しての指導と、講習生一同の努力との実が結んで水田の稲は今日此頃の秋風に金波を漂はし、西瓜南瓜等は已に終りましたが甘藷や里芋は畑を埋めて居ります。茶大根も今盛んに育つてゐます。先月二十七日から今月五日迄第八回青年長期講習員二十九名が農業実習にやつて来てゐますので非常な賑さです。何といつても日頃は寂しい位静な処ですから浄牧院の蝙蝠も嘸驚いてゐることでせう。


この武蔵野道場のあった浄牧院にはまた、日本青年協会と大日本連合婦人会との共同事業である武蔵家庭女学院も設置されており、浄牧院に置かれていたことから浄牧学院とも呼ばれていました。
保阪家に遺されているアルバムにはこんな写真があります。

江ノ島の嘉内.jpg

この左端には嘉内の字で
―江の島弁財天の窟下にて―
浄牧学院卒業生有志のトリップ―昭和七、三、二〇―

の書き込みがあります。
嘉内が江ノ島を訪れたのは、浄牧学院の教え子たちの「卒業旅行」に同行したのです。
11人の若き女性と共に満面の笑顔をたたえているこの写真から、当時の嘉内が青年教育に希望や自信を持って取り組み、教え子からも慕われていたであろうことがうかがえます。
この時期の嘉内にとっての武蔵野道場での活動は、賢治でいえば花巻農学校の教師時代に相当するものといえるかも知れません。
ちなみに、最前列にちょこんと座っている幼い男の子は、昨年「開運!なんでも鑑定団」に登場されたあの方です(^^;)

先日、近くに用事があったので少し足をのばして江ノ島に寄ってきました。
時間が足りず、嘉内たちが写真を撮ったところまでは行く余裕がなかったため(船が欠航していなければ行けたのですが……)、見当を付けて上から撮ってみました。
岩の感じからして、このあたりではないでしょうか?
この日もたくさんの人が訪れています。

江ノ島.JPG
      江ノ島の岩窟付近の海岸

【追記】
賢治の事務所員さんが、無念を晴らして嘉内たちが写真を撮った場所を確認してきてくださいました。
「緑いろの通信」2009年3月号の3月20日の記事も、ぜひごらんください!!
http://www.bekkoame.ne.jp/~kakurai/kenji/news/news200903.htm

(記:azalea)
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岩手訪問記(小岩井農場編) [ゆかりの地]

昨年から連載してまいりました「岩手訪問記」もいよいよ今回が最終回。
最後は、小岩井農場を訪れました。

2007年の「花園農村の碑」の除幕式に岩手県知事から贈られ、嘉内の故郷に植樹された3本の「ぎんどろの木」は、実は小岩井農場から分けていただいた苗木であったのです。
今さら言うまでもなく小岩井農場は賢治も嘉内も訪れたゆかりの地であり、『春と修羅』に収められた詩「小岩井農場」の中には嘉内や「アザリア」の友たちを髣髴とさせる言葉がちりばめられているという見方もされています。
そんな、二人の思い出につながる小岩井農場で育てられた苗木が嘉内の生家の近くに植樹されたということは、とてもすばらしいことだと思うのです。
嘉内は、「花園農村の碑」の近くの台地上にある墓地に眠っています。
きっと、「ぎんどろの木」の成長を楽しみにしていることでしょう。

と、いうことで盛岡だけではなく小岩井農場も、今回の訪問先にどうしても入れておきたかったのです。

まず最初に訪れたのは苗木を分けていただいた環境緑化部です。
ここで環境緑化部長の中村さんら関係者の皆様に御挨拶をし、例によって記念品をお渡しいたしました。

小岩井1(挨拶).JPG
      環境緑化部で訪問の御挨拶

外は吹雪になっていましたが、せっかくだからということで資料館長の野澤さんに御案内いただき、賢治や嘉内も見たと思われる古くからの建物を見て回ることになりました。

小岩井2(施設見学).JPG
      このころには外は吹雪でした

小岩井農場の中には創業のころ建てられ、今なお使われている建物がたくさんあり、その中には文化財になっているものもあります。
賢治や嘉内もこれらの建物を見たのか・・・と思うと、感慨深いものがあります。
環境緑化部周辺を見学した後は、車で移動し、内丸牛舎や資料館を見学しました。

小岩井3(資料館).JPG
      資料館の外観

小岩井4(資料館内).JPG
      資料館の展示を見る保阪庸夫氏ら

小岩井5(資料館内).JPG
      立体地図を一行に解説する岡澤前館長
      小岩井農場がいかに広いかがよくわかります

資料館の中には、小岩井農場の歴史を伝える貴重な資料や、生産物の説明、農場とその付近の立体地図などさまざまなものがあります。
館内では、館長の野澤さんと前館長の岡澤さんのお二人が丁寧に解説してくださいました。
ちなみに岡澤さんは『賢治歩行詩考―長篇詩「小岩井農場」の原風景』の著者で2006年に宮沢賢治学会から宮沢賢治賞奨励賞を受賞された方でもあり、賢治と小岩井農場の話は尽きません。
しかし、時間も限られているため残念ながら岡澤さんとはここでお別れし、再び車に乗り込み本部に移動します。
詩「小岩井農場」にも「本部の気取った建物」とうたわれている建物は1903年(明治36年)に建てられ、その後一部が増築され現在に至っているそうです。
国の登録文化財でもありますが、今も事務所として現役で活躍中です。

小岩井6(本部).JPG
      小岩井農場の本部

幸い吹雪も一段落したので、本部周辺で「小岩井農場」の詩にうたわれている風物を思い浮かべながら、ひとときを過ごしました。

こうして、一連の訪問は無事に終わり、盛岡駅で解散しました。
今回の訪問では、お名前を記させていただいた方々ばかりでなく、本当に多くの皆様にお世話になりました。
この場をお借りして心からお礼申し上げます。
そして、またいつの日か皆様とお目にかかることを楽しみにしています!

(記:azalea)
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岩手訪問記(岩手大学ミュージアム編) [ゆかりの地]

年末年始でしばらく間が空いてしまいましたが、昨年12月の岩手訪問記の続きです。
12月6日(土)は朝から霙の降る寒い日でしたが、この日の午前中は岩手大学を訪問し、ミュージアムを見学しました。
岩手大学ミュージアムは2001年7月に設置され、学内にある50万点の資料・標本などを展示公開するもので、岩手大学ミュージアム本館、農業教育資料館、動物の病気標本室といった展示施設や、自然観察園、附属植物園などの野外施設があるほか、大学全体がミュージアムという発想から学内の至るところに野外彫刻や貴重な樹木、史跡、建造物などが点在しています。
この日は、岩手大学ミュージアムの岡田幸助館長の案内により、まず屋外の施設から見学させていただきました。

旧植物園.JPG
      自然観察園で「植物園にて」のモニュメントを見る一行

最初に見学したのは自然観察園。賢治や嘉内がいたころにはここが植物園だったところで、嘉内が「植物園にて」と題した大正5年春に賢治や嘉内ら自啓寮南9号室のメンバーで撮った集合写真(嘉内一人が中央で寝そべっている写真)は、ここで撮影されたもの・・・ということで、その写真のモニュメントも建立されていました。

続いて、ひょうたん池、ロックガーデン、オープンギャラリー、上田の鐘などを見ながら農学部へ。
石川啄木の妻の節子(旧姓堀合)の生家は、現在温室のあるあたりにあり、節子が使った井戸が復元されています。
江戸時代、このあたりが武家屋敷であったというのも意外な発見です。

節子の井戸.JPG
      復元・整備された「節子の井戸」を見る一行

そこからさらに自啓の森に。
1975年、盛岡高等農林学校時代の校舎の跡地を農学部の附属植物園とする整備事業が始まりました。
その一環として、旧自啓寮の跡地は郷土森林生態観察モデル林として整備されました。
これが「自啓の森」で、作品にその名が出てくるなど賢治ゆかりの樹木には説明がついています。

自啓寮跡.JPG
      自啓寮跡地のモニュメントに立つ岡田館長(左)と保阪庸夫氏(右)

ちょうど降りが激しくなってきたころ、見学ルートはミュージアム本館へ。
岩手大学ミュージアム本館は、盛岡高等農林学校時代に図書館であった建物で、放送大学の学習センターとして使われていたものを改修して2003年にミュージアム本館として開学以来の研究成果や貴重な資料・標本類の展示・公開施設となっていて、解説ボランティアの方が丁寧に解説してくださいます。

岩手大学ミュージアム.JPG
      ボランティアの解説を聴く保阪氏

そして最後は、盛岡高等農林学校の本館で、国指定重要文化財(建造物)にもなっている農業教育資料館を訪れました。
建物のそばには賢治のモニュメントも建立されています。

旧本館.JPG
      農業教育資料館の前で

館内には、高等農林学校時代の資料が展示されています。また、2階は講堂となっており、歴代の校長の肖像画や卒業生の集合写真、校旗(賢治は学生時代旗手を務めていました)などが展示されていました。

内部.JPG
      農業教育資料館の展示室(旧会議室)での記念写真

こうして、岩手大学ミュージアムの見学を終えました。
お世話になった岩手大学の皆様、ありがとうございました。


(記:azalea)

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ゆかりの地をめぐって(埼玉県・ようばけ) 補記 [ゆかりの地]

賢治が埼玉県の小鹿野から見た月の話ですが、
その後「賢治の事務所」さんの「緑いろの通信 11月号」で、
さらに詳しい解説とシミュレーションがなされています。
下記URLより、11月10日の記事「小鹿野の月小考」をごらんください。
http://www.bekkoame.ne.jp/~kakurai/kenji/news/news200811.htm

小鹿野を賢治が訪れた折、「本陣寿旅館」に宿泊したと言われていますが、
その「本陣寿旅館」が売却されるという話を、たしか先月の初め頃の新聞で読みました。
その後、どうなったか気になるところです。。。
今のところは普通に営業を続けられているようです。
http://www.honjin.co.jp/


(記:azalea)
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ゆかりの地をめぐって(埼玉県・ようばけ) [ゆかりの地]

2008年3月の「武甲山」以来、「ゆかりの地をめぐって」の秩父編をひさびさに書いてみたいと思います。
埼玉県の小鹿野町には「ようばけ」というところがあります。
1500万年ほど前の地層が露出した崖として、地質学を研究されている方にはよく知られているところです。
場所はここです。
http://www.mapple.net/spots/G01100034501.htm

埼玉県の秩父地方は、今は山の中ですが、「ようばけ」からは貝や蟹の化石がたくさん採集でき、ここが太古の昔は海であったことがわかるのです。
「ようばけ」とは変わった名ですが、ちょうど夕方には西日がよく当たるので、「夕崖」「夕峡」がなまって「ようばけ」になったのではないかと言われています。
大正5年、盛岡高等農林学校の地質調査見学旅行で、宮沢賢治はここを訪れたようです。
「小鹿野」と題して
さはやかに半月かゝる薄明の秩父の峡のかへり道かな

という歌を作っています。
萩原昌好氏が検証されているようにこの「秩父の峡」が「ようばけ」をさし、見学を終えて宿への帰途に詠んだものであろう言われています。
また、この夜に賢治が見た星空については「賢治の事務所」の加倉井さんがシミュレートされ、その表現を実証されています。
http://www.bekkoame.ne.jp/~kakurai/kenji/history/h3/19160904.htm
きっと、賢治は旅行から帰って「ねえ、嘉内さん。秩父には『ようばけ』というところがあってねえ・・・」と、「ようばけ」を訪れた話をし、その話から受けた「ようばけ」のイメージが嘉内の心に強く残っていたのだと思います。

そして、翌大正6年、同じく地質調査見学旅行で秩父を訪れた保阪嘉内も、賢治の旅をしのんで「ようばけ」を訪れたようです。
嘉内がその時に綴った『秩父始原層 其他』というノートがあり、その中に記された行程から考えると、おそらくは全員で「ようばけ」を訪れたのではなく、集団行動の行程を終えてから嘉内一人もしくは有志で訪れたのではないかと推測されます。
その時嘉内が「ようばけ」で詠んだ歌が、
この山は
小鹿野の町も見えずして
大古の層に
白百合の咲く

である(原文のまま)と言われています。

「ようばけ」の対岸には、おがの化石館という施設がありますが、その庭に賢治と嘉内、二人の短歌を刻んだ歌碑が建立されています。
ようばけ.jpg
自然石を使った素朴な歌碑が、学生時代の二人が仲よく語らっている姿のように、私には感じられました。


(記:azalea)
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ニコライ堂 [ゆかりの地]

するが台雨に銹びたるブロンズの圓屋根に立つ朝のよろこび。
霧雨のニコライ堂の屋根ばかりなつかしきものはまたとあらざり。
青銅の穹屋根は今日いと低き雲をうれひてうちもだすかな。


宮沢賢治は、保阪嘉内にこんな短歌を書き送りました。
その書簡には大正5年8月17日の消印があります。

不思議なことに、保阪嘉内は同じ大正5年8月17日の日記に、
ニコライの司教のごとく手をひろげ曠野の夕、神に感謝す
という歌を書いています。

保阪嘉内は、そのほかにも
春の夜の九段の上の静けさやニコライ塔の灯高しも、
など、ニコライ堂に関する歌をいくつか作っています。

二人の歌に登場するニコライ堂は、東京の御茶ノ水駅から歩いて数分のところにあります。
正教伝道のためにロシアから日本にやってきたニコライ・カサートキン(1836-1912)によって明治24年に建設されたもので、正式には東京復活大聖堂といい、国の重要文化財にもなっています。
日本正教会のホームページによれば、「当時としては驚くべき大きさで荘厳なその姿は多くの人々の関心を引き寄せました」とのことです。
しかし、関東大震災でニコライ堂は崩壊し、現在私たちが見ることができるその建物は昭和4年に復興したものです。

ニコライ堂の全景.JPG
現在のニコライ堂

今のように高い建物の少なかったころ、ニコライ堂はまさに神田のランドマークでもあったことでしょう。
賢治や嘉内の心にも、その美しい姿は印象深いものであったと思います。
しかし、大正5年8月17日・・・ほぼ同時に賢治も嘉内もニコライ、もしくはニコライ堂に関する歌を作ったことには何か意味があるのでしょうか。
賢治からの手紙は8月19日に嘉内の許に届いていますので、嘉内の日記の歌は賢治の手紙に誘発されて書いたものではありません。
また、嘉内は少なくとも大正5年1月にはニコライ堂を詠んだ歌を作っていますので、かねてよりニコライ堂には関心を持っていたことがうかがえます。

さらに、大正6年1月1日の消印のある賢治が嘉内に宛てた葉書(つまり年賀状)には、
遙にあなたの御壮健を祈り又雲の中に立ち出でまして ニコライの司教のやうに手をひろげる人をおもひます。
という一文があります。
この一文は、大正5年8月17日の嘉内の歌を意識したものとみて間違いないでしょう。

嘉内がキリスト教に関心を持っていたことは知られていますが、ニコライ堂に対する関心は外見的なものだけなのか、あるいは聖ニコライに対する内面的なものもあるのか。
それは今後の研究課題の一つであると思っています。

■日本正教会
http://www.orthodoxjapan.jp/tenjou.html

■御茶ノ水の泉通信(東京復活大聖堂教会の信徒の方が開設されているサイトです)
http://www.geocities.jp/ynicojp2/


(記:azalea)
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緑石ゆかりの碑をめぐって [ゆかりの地]

緑石さんの特集を・・・と思って記事を書き始めたのですが、なかなかまとまりません。
今回は、河本緑石の故郷である鳥取県倉吉市とその近郊にある、ゆかりの碑をめぐってみることにしました。

風が・・・.jpg
風が落とすもの拾ふてゐる
昭和58年7月18日建立。
倉吉市国府植木場(久米ヶ原)にある句碑で、緑石五十年忌を記念して建立されたものだそうです。


あらうみ・・・.jpg
あらうみのやねやね
昭和9年建立。
鳥取県立倉吉農業高等学校の敷地内にあります。
文字は、緑石の一周忌のころ緑石の師である荻原井泉水が緑石の死を悼んで揮毫したもので、元の句は「荒海の屋根屋根」です。


空の潤ひ・・・.jpg
空の潤ひ地の潤ひに鍬をとる
昭和10年12月建立。
倉吉市国分寺の社公民館のそばにあります。
緑石が生まれた「社村」は、今は倉吉市の一部となっていますが、その「社」の名を残す公民館の敷地にあり、倉吉市教育委員会の説明板もあります。


明倫小歌碑.jpg
明倫小学校校歌
平成元年5月1日建立。
明倫小学校の創立80周年記念事業として建立されたものです。
歌詞については、こちらの記事をごらんください。


八橋海岸.jpg
波のうねりを影がおよぐよ
夜蝉がぢいと暗い空

平成2年7月18日建立。
この両句は、緑石の句ではなく、種田山頭火の句です。
緑石は、昭和18年7月18日、八橋海岸で生徒の水泳訓練中に溺れた配属将校を救おうとして体調不良の身で海に飛び込み、不帰の人となりました。
この碑は、その八橋海岸のそば、琴浦町逢束のあじさい公園にあります。
(碑の向こうに見えるのが八橋海岸です)

山頭火は緑石のことを「まだ見ぬ友」と言ったそうですが、緑石と山頭火は生前に一度も逢うことはありませんでした。
この年の夏、師の井泉水を迎えて大山に登る計画があり、もしその計画が実現していたら山頭火も訪れていた・・・でしょうか?


詩にかかわる

詩にかかわる

  • 作者: 入沢 康夫
  • 出版社/メーカー: 思潮社
  • 発売日: 2002/06
  • メディア: 単行本


ちなみに、先月、入沢康夫先生がコメントをくださり、『詩にかかわる』(思潮社、2002年)という御著書の中に先生と緑石さんの関わりについて触れた「日野川」という文章があることを教えていただきました。
入沢先生の伯父様は、緑石さんとは俳句を通じての親交があり、昭和8年の夏には一緒に大山に登る予定だったのだそうです。
入沢先生がこんなささやかなブログに丁寧なコメントをくださったことも驚きでしたが、実際に「日野川」を読んでみてこの伯父様のお話にも驚きました。


緑石墓所.jpg
ここが墓所です。
緑石さん、どんなことを思いながら眠っとんなるんでしょうなぁ・・・・。


(記:azalea)

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当麻戸神社の例大祭 [ゆかりの地]

4月12日は当麻戸神社の例大祭でした。
ちょうど土曜日だし、陽気もよかったので、みんなで出かけました。

駒井の鎮守として祀られてきた当麻戸神社(とうまとじんじゃ)は、保阪嘉内が営農していた時期に氏子総代も務めていた神社です。
社伝によれば、その起源は古く欽明天皇の御代に創建されたと伝えられ、祭神として建御名方神と共に大酒解命・小酒解命の二神が祀られています。
本殿は市指定文化財になっています。

建御名方神は諏訪大社の祭神ですから、この地域が文化的あるいは政治的に諏訪と繋がりがあったことが推測されます。
おそらく、建御名方神は後になって祀られた神で、元々の祭神は大酒解命・小酒解命であったのではないでしょうか。
それは、「藤井平五千石」と称されたこの地域が、古くから良質な土壌や水に恵まれて美味しい米が穫れた地であったことを示すもののように思われます。
ちなみに保阪嘉内の生家のあるあたりの地区は「鳥居」と呼ばれ、この当麻戸神社のすぐ近くにあります。

当麻戸神社全景.JPG
当麻戸神社の全景です。境内の桜は満開でした。

八ヶ岳.JPG
参道からは遠くにちょっと霞んで八ヶ岳もよく見えます。電線が邪魔ですね。
あ、でもデンシンバシラは賢治と嘉内の友情のキーワード(?)だとすれば、邪魔者扱いしてはバチがあたる?

茅ヶ岳.JPG
こっちは茅ヶ岳。手前の建物は韮崎北東小学校です。
嘉内の母校・藤井尋常小学校はその前身です。

少女の舞.JPG
神楽殿では、地元の少女たちの舞がありました。

神楽.JPG
少女たちの舞に引き続いて、神楽が奉奏されます。
当麻戸神社の例大祭に演じられる神楽は、嘉内が芝居好きになったきっかけであったそうです。
当時は地元の駒井の人たちによって演じられていましたが、今は穂坂町の人を頼んでいます。
神話を題材とした神代神楽ですが、子どもたちには「神楽」というより「餅まき」のイベントのようです。

境内.JPG
境内もにぎわっています。ところどころに知った人の後ろ姿が!!

手水鉢.JPG
境内の古い手水鉢の中にはボウフラがわいていたり、なぜか蟹が二匹いたりしました。
これって、「蠕虫舞手」と「やまなし」の世界?
と、つい神楽よりもボウフラの踊りに目がいってしまいました[ふらふら]

さて、当麻戸神社の雰囲気を少しは感じていただけましたでしょうか?
最後は、境内の満開の桜です!

桜.JPG
この桜も、今ごろはもう散ってしまっていることでしょう。


(記:azalea)
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