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ニコライ堂 [ゆかりの地]

するが台雨に銹びたるブロンズの圓屋根に立つ朝のよろこび。
霧雨のニコライ堂の屋根ばかりなつかしきものはまたとあらざり。
青銅の穹屋根は今日いと低き雲をうれひてうちもだすかな。


宮沢賢治は、保阪嘉内にこんな短歌を書き送りました。
その書簡には大正5年8月17日の消印があります。

不思議なことに、保阪嘉内は同じ大正5年8月17日の日記に、
ニコライの司教のごとく手をひろげ曠野の夕、神に感謝す
という歌を書いています。

保阪嘉内は、そのほかにも
春の夜の九段の上の静けさやニコライ塔の灯高しも、
など、ニコライ堂に関する歌をいくつか作っています。

二人の歌に登場するニコライ堂は、東京の御茶ノ水駅から歩いて数分のところにあります。
正教伝道のためにロシアから日本にやってきたニコライ・カサートキン(1836-1912)によって明治24年に建設されたもので、正式には東京復活大聖堂といい、国の重要文化財にもなっています。
日本正教会のホームページによれば、「当時としては驚くべき大きさで荘厳なその姿は多くの人々の関心を引き寄せました」とのことです。
しかし、関東大震災でニコライ堂は崩壊し、現在私たちが見ることができるその建物は昭和4年に復興したものです。

ニコライ堂の全景.JPG
現在のニコライ堂

今のように高い建物の少なかったころ、ニコライ堂はまさに神田のランドマークでもあったことでしょう。
賢治や嘉内の心にも、その美しい姿は印象深いものであったと思います。
しかし、大正5年8月17日・・・ほぼ同時に賢治も嘉内もニコライ、もしくはニコライ堂に関する歌を作ったことには何か意味があるのでしょうか。
賢治からの手紙は8月19日に嘉内の許に届いていますので、嘉内の日記の歌は賢治の手紙に誘発されて書いたものではありません。
また、嘉内は少なくとも大正5年1月にはニコライ堂を詠んだ歌を作っていますので、かねてよりニコライ堂には関心を持っていたことがうかがえます。

さらに、大正6年1月1日の消印のある賢治が嘉内に宛てた葉書(つまり年賀状)には、
遙にあなたの御壮健を祈り又雲の中に立ち出でまして ニコライの司教のやうに手をひろげる人をおもひます。
という一文があります。
この一文は、大正5年8月17日の嘉内の歌を意識したものとみて間違いないでしょう。

嘉内がキリスト教に関心を持っていたことは知られていますが、ニコライ堂に対する関心は外見的なものだけなのか、あるいは聖ニコライに対する内面的なものもあるのか。
それは今後の研究課題の一つであると思っています。

■日本正教会
http://www.orthodoxjapan.jp/tenjou.html

■御茶ノ水の泉通信(東京復活大聖堂教会の信徒の方が開設されているサイトです)
http://www.geocities.jp/ynicojp2/


(記:azalea)
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