SSブログ

ゆかりの地をめぐって(埼玉県・ようばけ) [ゆかりの地]

2008年3月の「武甲山」以来、「ゆかりの地をめぐって」の秩父編をひさびさに書いてみたいと思います。
埼玉県の小鹿野町には「ようばけ」というところがあります。
1500万年ほど前の地層が露出した崖として、地質学を研究されている方にはよく知られているところです。
場所はここです。
http://www.mapple.net/spots/G01100034501.htm

埼玉県の秩父地方は、今は山の中ですが、「ようばけ」からは貝や蟹の化石がたくさん採集でき、ここが太古の昔は海であったことがわかるのです。
「ようばけ」とは変わった名ですが、ちょうど夕方には西日がよく当たるので、「夕崖」「夕峡」がなまって「ようばけ」になったのではないかと言われています。
大正5年、盛岡高等農林学校の地質調査見学旅行で、宮沢賢治はここを訪れたようです。
「小鹿野」と題して
さはやかに半月かゝる薄明の秩父の峡のかへり道かな

という歌を作っています。
萩原昌好氏が検証されているようにこの「秩父の峡」が「ようばけ」をさし、見学を終えて宿への帰途に詠んだものであろう言われています。
また、この夜に賢治が見た星空については「賢治の事務所」の加倉井さんがシミュレートされ、その表現を実証されています。
http://www.bekkoame.ne.jp/~kakurai/kenji/history/h3/19160904.htm
きっと、賢治は旅行から帰って「ねえ、嘉内さん。秩父には『ようばけ』というところがあってねえ・・・」と、「ようばけ」を訪れた話をし、その話から受けた「ようばけ」のイメージが嘉内の心に強く残っていたのだと思います。

そして、翌大正6年、同じく地質調査見学旅行で秩父を訪れた保阪嘉内も、賢治の旅をしのんで「ようばけ」を訪れたようです。
嘉内がその時に綴った『秩父始原層 其他』というノートがあり、その中に記された行程から考えると、おそらくは全員で「ようばけ」を訪れたのではなく、集団行動の行程を終えてから嘉内一人もしくは有志で訪れたのではないかと推測されます。
その時嘉内が「ようばけ」で詠んだ歌が、
この山は
小鹿野の町も見えずして
大古の層に
白百合の咲く

である(原文のまま)と言われています。

「ようばけ」の対岸には、おがの化石館という施設がありますが、その庭に賢治と嘉内、二人の短歌を刻んだ歌碑が建立されています。
ようばけ.jpg
自然石を使った素朴な歌碑が、学生時代の二人が仲よく語らっている姿のように、私には感じられました。


(記:azalea)
nice!(0)  コメント(3) 

nice! 0

コメント 3

sora

ひさびさに書き込みます。
この崖はまるでバームクーヘンのようで、実に美味しそうですね。
見ていると涎が出そうです。
by sora (2008-11-10 12:43) 

signaless

私はこの写真を見るたび、
なんだかほっとするような暖かいような、でも涙が出るような、
不思議な感情におそわれます。
いつか行ってみたいです。


soraさん、いつかほんとに(殴・蹴・頭突)ですからネ。

by signaless (2008-11-10 19:05) 

azalea

そうそう、不思議な碑ですよね。
背景と碑が溶け合って、一つの世界を作っているような感じがします。
私も1回しか行ったことがないのですが、いつかまた行きたいと思います。

しかし、soraさんは相変わらず頭まで胃袋な人だなぁ・・・(笑)
by azalea (2008-11-10 21:19) 

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。