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保阪嘉内について(5) [人物に関すること]

日本青年協会に奉職し、農業に志す青年の指導者として活動していた保阪嘉内でしたが、それも長くは続きませんでした。
日本青年協会に就職した際に不問に付すことが約束されていたはずの盛岡高等農林学校除名処分の一件を持ち出され、昇格がはばまれたことを機に、1934(昭和9年)4月、嘉内は協会を退職してしまいます。

そして、発明家の山内不二門と組んで、農村副業の研究を始めます。
とりわけアミノ酸醤油の醸造は試験販売を行おうというところまで進んでいたようです。

しかし、このとき河本義行・宮沢賢治の二人は既にこの世になく、嘉内に残された時間もそう長くはありませんでした。
胃癌が嘉内をおそったのです。

療養の効果もあり、一度は小康状態を取り戻して農村副業の研究を再開しました。
しかし、1936(昭和11)年11月、ついに東京での生活をあきらめ、山梨の生家に戻って病臥しなければならないほどにまで病状は悪化しました。

そして1937(昭和12)年、2月8日。
嘉内は40歳と4か月に満たない生涯を終えました。
臨終の日、集まった近親者が号泣する中で、嘉内はこう言いました。
「何を泣いているんだ。人は皆、こうして自然に還ってゆくのだ」
土を愛し、早世論を唱えた嘉内の最後の言葉でした。

保阪嘉内の枕元には、小菅健吉・河本義行そして宮沢賢治からの手紙を貼った草色の表紙のスクラップブックがありました。

こうして、嘉内はこの世を去りましたが、嘉内の夢見た「花園農村」には、今でいう地域おこしの発想が随所にみられます。
詩人や童話作家としてこの国でその名を知らない人はない宮沢賢治。
その賢治に大きな影響を与え、農村改善のさまざまな試みを行った保阪嘉内。

この二人を顕彰したモニュメント「保阪嘉内・宮沢賢治 花園農村の碑」がまもなく韮崎市の嘉内の生家に近い東京エレクトロン韮崎文化ホールの前庭に建立されます。
モニュメントのそばには岩手県から贈られたぎんどろの木も植樹されます。
モニュメントの除幕式は10月13日(土)に行われます。
詳しくは9月26日の記事をごらんください。
http://blog.so-net.ne.jp/azalea-4/2007-09-26

また、保阪嘉内の生涯については『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』をごらんください。
http://blog.so-net.ne.jp/azalea-4/2007-09-29


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保阪嘉内について(4) [人物に関すること]

新聞社をやめ、再び郷里で営農をはじめた保阪嘉内でしたが、地元のさまざまな役職や、在郷軍人としての活動にも携わらなければなりませんでした。
そうした在郷軍人としての活動の一つに、青年訓練所での指導がありました。

青年訓練所は、初等教育しか受けてこなかった青年を対象に、軍事教練を行ったり補修として教養を身につけさせたりするものでした。
ここでの青年の指導を通じて、嘉内は青年教育に生きがいを見出していきます。

その結果、日本青年協会へ次第に接近し、日本青年協会が全国各地に建設を進めていた農業伝習所の構想に共鳴します。
そして、こうした日本青年協会の活動に従事することで、日本の未来をになう青年たちに新しい農業経営の方法を伝授しようと考えるようになります。

そして1931(昭和6)年の10月、保阪嘉内は一切の役職を辞退し、農地も処分して上京します。
そして日本青年協会が現在の東久留米市に開設をすすめていた武蔵野道場の主任として、新たな活動を開始します。

(続く)


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保阪嘉内について(3) [人物に関すること]

その後の賢治と嘉内との関係については憶測の域を出ませんが、交友が断絶したのか、形を変えて(?)続いていたのか……
私は後者だと思います。
(それについてはまたいつか書くことがあるでしょう)

さて、1921(大正10)年以降の保阪嘉内の生涯ですが、さまざまな仕事に就きつつ、予備役の軍事演習などに参加して数年を過ごします。
そして1924(大正13)年、山梨日日新聞社に入社して、記者として文芸欄や編集を担当します。
嘉内にとってのこの時期は、賢治にとっての農学校の教員時代に相当するものだと思います。
嘉内が担当した新聞の歌壇に短歌を投稿した佐藤さかゑと知り合い、結婚したのもこの時期です。

しかし、嘉内はまた営農を考えるようになります。
1925(大正14)年には山梨日日新聞を退社し、駒井の実家に戻って再び理想の模範農村――花園農村をめざして活動を再開します。


山梨日日新聞時代の嘉内(『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』より)

(続く)


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保阪嘉内について(2) [人物に関すること]

1918(大正7)年の3月、盛岡高等農林学校から除名という厳しい処分を受け、学校を去ることを余儀なくされた保阪嘉内はどうしたのでしょうか?
失意の底から再度学問への志を新たにし、駒場か札幌の農科大学を受験しようとします。
とはいえ十分な受験勉強をするだけの時間も、また心のゆとりもなかったことでしょう。
その年(大正7年)には合格することはできませんでした。

翌年の受験をめざし、明治大学に籍を置きつつ東京で勉強を続けていましたが、6月に母が逝去したことにより、
進学を断念して郷里に戻って農業を営むことを考えるようになります。
そして、その年の11月から営農の準備を開始します。

嘉内は、自らを「農人」と称し、花園農村の実現に向けてさまざまな試みを開始したものの、旧弊な家や農村のなかにあってはなかなか思ったようにはいかなかったようです。
そんな中で一年志願兵として1919(大正8)年12月からおくった1年間の軍隊生活。
それに続く山梨教育会での勤務。
こうした生活の中で嘉内は自らの進む道について悩んでいました。
一時は家を出ることも考えますが、賢治はそれを止める手紙を出しています。
この時、賢治が止めなければ、その後の賢治と嘉内の関係は、
もう少し違ったものになっていたかも知れません。

そして迎えた1921(大正10)年7月18日、賢治と嘉内は上野の帝国図書館で再会しますが、宗教に対する考え方の違いから激しい口論の末に訣別した――と言われています。
その状況については賢治の「図書館幻想」などから、いくらか推測することができます。

(続く)


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保阪嘉内について(1) [人物に関すること]

同人誌「アザリア」を発行していたアザリア会の中心人物は、宮沢賢治・保阪嘉内・小菅健吉・河本義行の4人でした。
そのうち、宮沢賢治についてはいまさらここで触れることもないでしょう。

ここではほかの3人について、簡単に紹介してみたいと思います。
まずは、保阪嘉内です。

保阪嘉内は、1896(明治29)年の10月18日、山梨県の駒井村(現韮崎市)に生まれました。
山梨県立甲府中学校を卒業後、東北帝国大学農科大学(現北海道大学農学部)の受験に失敗して1年の浪人生活を送った後、1916(大正5年)年に盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)の農学科第二部に入学し、寮で宮沢賢治と同室になりました。
それが機縁で賢治との仲が深まり、1917(大正6年)7月には共に「アザリア」を創刊します。
しかし、「アザリア」に過激な文言の文章を掲載したことがもとで、学校から除名処分を受け、志半ばで盛岡高等農林学校を退学しなければならなくなりました。
この時、賢治は嘉内に座右の書であった『漢和対照妙法蓮華経』を贈ったと言われています。
その経巻は、いまも保阪家に大切に保管されています。
(続く)


保阪嘉内


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「アザリア」とは? [人物に関すること]

さて、イベント関係の情報も一段落したところで、このブログのタイトルにもなっている「アザリア」についてお話したいと思います。

「アザリア」とは、今から90年前の1917(大正6)年に、盛岡高等農林学校(現在の岩手大学農学部)で誕生した「アザリア会」発行の同人誌(文芸雑誌)です。
会員は、全部で12人。
みんなで原稿を持ち寄って、会員の数の分だけ謄写版で印刷したそうです。

第1号が発行されたのは1917年の7月1日のことでした。
その後、2・4・5・6号と不定期に発行され、1918(大正7)年6月26日発行の第6号で終刊となりました。

わずか1年ほどの短命な雑誌ではありましたが、この手作りのちいさな雑誌を通じて宮沢賢治は文芸に目覚めていったと言えるのではないかと思います。
そして、同人の中でも保阪嘉内・小菅健吉・河本義行の3人は、賢治にとってかけがえのない友となったのでした。


「アザリア」2・3・5・6号(保阪嘉内旧蔵本)


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