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保阪嘉内について(3) [人物に関すること]

その後の賢治と嘉内との関係については憶測の域を出ませんが、交友が断絶したのか、形を変えて(?)続いていたのか……
私は後者だと思います。
(それについてはまたいつか書くことがあるでしょう)

さて、1921(大正10)年以降の保阪嘉内の生涯ですが、さまざまな仕事に就きつつ、予備役の軍事演習などに参加して数年を過ごします。
そして1924(大正13)年、山梨日日新聞社に入社して、記者として文芸欄や編集を担当します。
嘉内にとってのこの時期は、賢治にとっての農学校の教員時代に相当するものだと思います。
嘉内が担当した新聞の歌壇に短歌を投稿した佐藤さかゑと知り合い、結婚したのもこの時期です。

しかし、嘉内はまた営農を考えるようになります。
1925(大正14)年には山梨日日新聞を退社し、駒井の実家に戻って再び理想の模範農村――花園農村をめざして活動を再開します。


山梨日日新聞時代の嘉内(『心友 宮沢賢治と保阪嘉内』より)

(続く)


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