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保阪嘉内について(2) [人物に関すること]

1918(大正7)年の3月、盛岡高等農林学校から除名という厳しい処分を受け、学校を去ることを余儀なくされた保阪嘉内はどうしたのでしょうか?
失意の底から再度学問への志を新たにし、駒場か札幌の農科大学を受験しようとします。
とはいえ十分な受験勉強をするだけの時間も、また心のゆとりもなかったことでしょう。
その年(大正7年)には合格することはできませんでした。

翌年の受験をめざし、明治大学に籍を置きつつ東京で勉強を続けていましたが、6月に母が逝去したことにより、
進学を断念して郷里に戻って農業を営むことを考えるようになります。
そして、その年の11月から営農の準備を開始します。

嘉内は、自らを「農人」と称し、花園農村の実現に向けてさまざまな試みを開始したものの、旧弊な家や農村のなかにあってはなかなか思ったようにはいかなかったようです。
そんな中で一年志願兵として1919(大正8)年12月からおくった1年間の軍隊生活。
それに続く山梨教育会での勤務。
こうした生活の中で嘉内は自らの進む道について悩んでいました。
一時は家を出ることも考えますが、賢治はそれを止める手紙を出しています。
この時、賢治が止めなければ、その後の賢治と嘉内の関係は、
もう少し違ったものになっていたかも知れません。

そして迎えた1921(大正10)年7月18日、賢治と嘉内は上野の帝国図書館で再会しますが、宗教に対する考え方の違いから激しい口論の末に訣別した――と言われています。
その状況については賢治の「図書館幻想」などから、いくらか推測することができます。

(続く)


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