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ハレー彗星から100年 保阪嘉内が見た星空(その2) [イベント(展覧会・講演会・研究会など)]

講演はまず保阪嘉内次男の保阪庸夫氏が山高帽をかぶって登場。(写真がなくてすみ
ません。とてもよく似合っていました。)

保阪講演.JPG

庸夫氏は嘉内の少年時代のことについてお話しされました。
嘉内の小学生時代(藤井小学校)は、河原から石を拾ってきたり、植物や花や木の成長の記録をしたりすることが好きで、自然や山が好きな少年だったそうです。
また、おとぎ話や童謡、童話も大好きだったそうです。
山のスケッチを書いて友達に配ったり、高学年になるとみんなの前で講談を演ずるなど変わった少年であったエピソードも出されました。
そんな少年も大人と混じって負けずに田畑を耕したりしながら、日露戦争で働き手が戦争に行くのを見て「戦争はしない方がよい」「荒れ果てた農村を美田に変える」という思想、農業を大切にする考えの基礎がこの時代に培われたようです。
その後韮崎小の高等科に進み、甲府中学に進学する中でその興味、関心を同人誌に発表したり、弁論部で論じることに発展していった過程を話され、嘉内の生涯を知る上で貴重な講演でした。

次に加倉井厚夫氏が「保阪嘉内が見た星空 ハレー彗星1910年5月への回帰」というテーマで写真やコンピューターグラフィックを駆使しながら詳しく説明されました。

加倉井講演.JPG

まず、保阪嘉内が当時の甲府中学校の教師で後に天文の分野で活躍する野尻抱影の影響を強くうけたことを紹介しながら、野尻抱影の弟子である草下英明氏が加倉井さんの星の師であることからこの講演を得たことを「不思議なつながりを感じる」と述べていました。
ハレー彗星やこれまでの彗星の歴史から彗星とは何かということを説明した後に、この嘉内のスケッチから
①甲府中学の寄宿舎か甲府城の周辺で描かれたこと
②5月20日は太陽とハレー彗星が接近しすぎていてその時間には見えないこと
③夕八刻とあるのは江戸時代の不定時法でいうと深夜にあたるが夜八時のことではないか。
という推察のもと、「最初にスケッチをしてその後色塗りをして言葉や日時を付け加えたのではないか。実際にスケッチのようにハレー彗星が見えるのは5月21日の夜八時前後である。嘉内は後で日時を書き加えるときに20日と21日を書き違えたのではないか」という考えを述べました。
次回のハレー彗星が日本で見えるのは2061年7月末から8月初旬にかけてのことだそうです。
その時に見えるであろうハレー彗星の様子もコンピューターグラフィックで再現していました。
参加者は講演を通して、100年前の嘉内の見た星空に思いを馳せて、画像や説明から大きな感動を与えていただきました。
説明用資料(PDF)はこちら

その後「当時の天気について」「保阪嘉内の天文についての知識について」「庸夫さんは父親の子ども時代のことをいつ、どのように聞いたのか」など活発な質問が相次ぎました。

向井田.JPG

最後にアザリア記念会副会長の林紘子さんが「また50年後のハレー彗星を見られるように、これからもがんばって活動を続けましょう。」という挨拶で終わりました。

林閉会.JPG

あらためて嘉内が描いたスケッチの持つ様々な意味と不思議さが深まり広がった会であったと感じました。
当時の甲府中学の講堂を思わせる会場もこの会にぴったりの雰囲気でした。

スケッチ.jpg

(記:むこうみず)

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