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『盛岡高等農林写真帳 熱きポランの広場』 (トリョーコム刊) [本の紹介]

今年6月に岩手大学開学60周年記念事業として「宮沢賢治から保阪嘉内の手紙展」が計画されていますが、関連資料を探していたところ偶然ネットオークションで手に入れました。(1500円でした)
貴重な資料ですのでご紹介します。

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発行日は昭和53年5月20日 定価2500円 監修 岩手大学農学部資料収集委員会となっています。
表紙はおなじみの「植物園にて」。
嘉内が頬杖をついて寝そべっている後ろに賢治がいます。
写真も明治36年の開校当時の写真から校舎や実習の様子(馬の解体、田植え、バター作り、羊毛刈りなど)や運動会、部活動、自啓寮、修学旅行、岩手山登山など貴重な写真が多数収録されています。

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        本文にはたくさんの写真があります

また、寄稿文も賢治・嘉内と寮の同室であった工藤(旧姓原戸)藤一氏が寮生活の中での賢治や嘉内の思い出を語ったり、森荘巳池氏が「賢治の初恋の歌」を寄稿したり、「賢治とその周辺」の著者である川原仁左エ門氏が嘉内も参加した卒業送別会や西洋料理について寄稿したり興味深い内容が多く書かれています。
当時の農学部長の石川武男氏は、
「青春の表情として二つの表情を見る。一つは全国各地から盛岡高等農林に求学し救農の学問的方法を学ぶ青春の表情である。その特長とは学問的方法にある。盛岡高等農林は学問を単なる批判力としてのみ探究したのではない。学問を生産か生活の組織力として実践の大海原に探究しかつ育てることに努めてきた。そこに『自啓練冶』の教育方針が生まれる。だからこそ農林の青春が理論と実践のはざまにあって自己拷問しもだえている。その表情が「熱きポラン」の「熱き」になるのである。もう一つは農林の画く青春の表情である。『自啓練冶』のもとで救農の正義に燃ゆるのだが、その一方に体制が強制する。灰色の青春との相剋である。銃をとり、行軍し学徒とよばれ出陣もする。青春の失意と徒労の強制である。それは農林の青春に見る歪みである。矛盾と葛藤の表情といえよう」
このような文章を本書に寄せています。

賢治と嘉内の先輩から今につながる青春の姿を見ることができる本に出会うことができました。
この内容も今回の展示に反映させることを希望したいと思いました。


(記:むこうみず)

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コメント 6

本多桂子

 私も図書館でこの『熱きポランのひろば 盛岡高等農林学校写真帳』を見ました(館内閲覧のみ可能でした)。寮で腕相撲をしたり、バイオリン伴奏にみんなで歌ったり踊ったり、とても楽しそうで何だか羨ましくなりました。新入生には食塩水(?)を飲ませる儀式が行われたり、変てこなエピソードもありましたが。
 ところでこの記事にも紹介されている『賢治とその周辺』ですが、これも館内閲覧で読むことができました。最後のページにきた時、何気なく執筆者一覧を見たのですが、あの植物園の写真の一番左に写っている萩原弥六氏の住所が群馬県安中市となっているので、少し嬉しくなりました。というのは、私の父親が安中出身だからです。そこでそれとなく父に話してみたのですが、なんと「弥六さん知ってるよ」というのです。写真を見せてみると、「うんこんな顔立ちだ」というので、まさかと思ったのですが、どうやら父が学生の頃、農業の授業で教わったというのです。その頃既に60歳位だったというので、今生きていれば115歳位で年代も合うということで、どうやら同一人物らしいのです。意外なところで賢治さんの寮同室者と繋がりがありました。それとも、やはり同姓同名の別人でしょうか…
by 本多桂子 (2012-04-30 22:54) 

azalea

それは、思わず「えーっ!!」と叫びたくなりそうな発見(?)だったですね。私もきっとお父様の恩師は、あの萩原弥六さんに間違いないと思います。何とも素晴らしいご経験のコメントをいただき、私までうれしくなってしまいました。
賢治さんの同級生や下級生(といっても「アザリア」会員や寮での同室者など関係のある方に限られますが)については、かつて田口昭典さんという方(故人)がいろいろ調べられていました。田口さんによれば、萩原弥六さんは昭和59年に亡くなられたようです。
昭和50年代はまだ賢治さんを直接御存知の方々が何人もお元気だったのですね・・・。
by azalea (2012-05-01 19:31) 

須藤章二

 宮澤賢治に関するブログをチェックしていて、たまたまこのサイトを拝見し、萩原弥六が私の妻の曾祖父にあたりますので、コメントさせていただきます。

 萩原弥六は群馬県安中市磯部生まれです。昔は、碓氷郡磯部村でした。弥六の祖父である萩原鐐太郎は、隣町に官製富岡製糸工場が設立された6年後の明治11年に、近隣農家を集め民営の「碓氷座繰製糸社(後の碓氷社)」という、生糸輸出組合を共同創立しました。 

 農業問題に非常に関心があった祖父の強い意志があり、地元の高崎中学(現高崎高校)を卒業後、盛岡高等農林学校に進学しました。

 最初の寮生活で宮澤賢治と同室になりましたが、理系人間で文学にはあまり興味はなかったらしく、「アザリア」創設には参加していないようです。本当に残念ですが・・・

 卒業後、香川県の農林学校の教師をへて、最後に地元安中市の新島学園の教師を務め、1984年(昭和54)6月13日に89歳で亡くなりました。新島学園以外の学校でも教師経験があるようですが、このころ本多さんのお父さんの先生だったのでしょう。

 安中市は新島襄の出身地(安中藩)でもあり、明治11年に新島襄により群馬県で初の「安中キリスト教会」が創立されています。新島学園は新島襄を記念して1947年安中市に創立した私立学校です。

 なお、弥六の実の妹「ふう」は、山種証券(現SMBCフレンド証券に吸収合併)創業者の山崎種二の妻となり、弥六の妻「さと」は故福田赳夫元首相の妻と従姉妹にあたるそうです。

by 須藤章二 (2012-10-28 18:02) 

azalea

須藤さま、貴重なお話しをありがとうございます。
これまで知られていなかった萩原弥六さんのことを詳しくお教えいただき、大変ありがたく感じております。
萩原弥六さんも大志を持って盛岡高等農林に進学された方であったことが、よくわかりました。
前のコメントをお書きになった本多さまも、きっと喜ばれることと思います。

この記事の執筆者に代わって、厚く御礼申し上げます。
by azalea (2012-10-28 20:38) 

須藤

弥六との不思議な因縁のお話が出ましたので、ご参考にしてください。

(なお、上記コメントに一部誤りがありましたので修正します。「妻の曽祖父⇒妻の祖父」「1984(昭和54年)⇒1984(昭和59年)」でした)
by 須藤 (2012-10-28 23:32) 

azalea

御丁寧にありがとうございますm(_ _)m
本当に、とても参考になりました。
by azalea (2012-10-29 07:26) 

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