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花園農村と大関松三郎「ぼくらの村」 [人物に関すること]

みなさんは大関松三郎を知っていますか。
大関松三郎は1926年(昭和元年)新潟県に生まれる。
詩集「山芋」が1951年に発行されると大きな反響をよび、現在でも読み継がれている。
厳しい農村の風土や労働の中から生活を真正面からとらえ、未来を歌った骨太な詩は12才の作であることを忘れさせられるほど深い感動を読者に与える。

山芋.jpg

松三郎の詩は山田洋次監督の「学校」の映画の中でも「夕日」という詩が取り上げられ、教師役の西田敏行の授業シーンに出てくる。
指導した寒川道夫氏は生活つづり方(作文教育)の優れた指導者で、教室や自分の下宿で子どもたちに社会の科学的な見方やあるべき農村の姿、歴史や文化を教え詩や作文にまとめさせた。
寒川氏は治安維持法で獄中に捕らえられ、戦後松三郎の詩を世に出した。
わたしは小学校の教師として学生時代にこの詩に出会い、時々授業にも取り上げたり折にふれてこの詩集を取り出している。
松三郎が掲げた農村の未来への理想と保阪嘉内が掲げた花園農村の理想がぴったり重なり合い現在につながっていることをみなさんに紹介したい。
少し長いですが読んでください。

ぼくらの村   大関松三郎

ぼくはトラクターにのる スイッチをいれる
エンジンが動き出す  ぼくの体がブルルンブルルンゆすれて
トラクターの後から 土が波のようにうねりだす
ずっとむこうまで  むこうの葡萄園のきわまで まっすぐ
四すじか五すじのうねをたがやして進んでいく
あちらの方からもトラクターが動いてくる
のんきな はなうたがきこえる
「おーい」とよべば 「おーい」とこだまのようなこえがかえってくる
野原は 雲雀のこえとエンジンの音
春のあったかい土が つぎつぎとめくりかえされて 水っぽい新しい地面ができる
たがやされたところは くっきりくぎられて
そのあとから肥料がまかれる 種がまかれる
広い耕地がわずかな人とわずかな汗で
いつもきれいに ゆたかにみのっていく
葡萄園東側にずっと並んでいるのは家畜小屋
にわとりやあひるや豚や兎や 山羊やめんようがにぎやかにさわぎまわり
そこからつづいている菜種畑や れんげの田には
いっちんち 蜜ばちがうなりつづけている
食用蛙や鯉やどじょうのかってある池が たんざく形に空をうつしながら
菜種畑の黄色とれんげ田の紅色の中に 鏡のようにはまりこんでいる
ずっとむこうの川の土手には 乳をしぼる牛や 肉をとる牛があそんでいる
こんなものの世話をしているのは としよりや女の人たち
北がわに大きなコンクリートの煙突をもっているのは 村の工場
半分では肥料を作っているし 半分では農産物でいろんなものを作っている
あそこから今でてきたのは組合のトラックだ
きっと バターや肉や野菜のかんづめや
なわやむしろやかますや靴なんかをのせているだろう
村で出来たものは遠い町までうられていく
そして南の国や北の国のめずらしいものが 果物でも機械でもおもちゃでも本でも
村の人たちののぞみだけ買ってこられる
組合の店にいってみよ 世界中の品物がびっくりするほどどっさり売っているから
あ、今 工場の右の門から蜜ばちのようにあちこちとびだしたオートバイは
方々の農場へ肥料を配達するのだ
いい肥料をうんと使って うんと肥えた作物を作らねばならない
あちらこちらから 静かにくる白い自動車は 病人をのせてあるく病院の自動車だ
「よう恒夫か、足はどうだい」 「もうもとどおりにはなおらんそうだ それでこんどは学校へはいってな 家畜研究をやっていくことになったんだ」
「おおそうか しっかりやってくれ さようなら」
自動車はいく ぼくはトラクターを動かす
病人はだれでも無料で病院でなおしてもらう
そして体にあう仕事をきめてもらうのだ
だれでも働く みんながたのしく働く 自分にかのう(かなう)仕事をして
村のために働いている 村のために働くことが自分の生活をしあわせにするのだ
みんなが働くので こんなたのしい村になるのだ
村の仕事は 規則正しい計画にしたがって 一日が時計のようにめぐっていく
一年も時計のようにめぐっていく
もう少しで 村のまんなかにある事務所から 交代の鐘がなってくるだろう
そうしたら ぼくは仕事着をぬぎすて 風呂にとびこんで 体をきれいにする
ひるからは 自分のすきなことができるのだ
絵でもかこうか 本でもよもうか
オートバイにのって 映画でもみにいこうか 今日は研究所にいくことにしよう
こないだからやっている 稲の工場栽培は
太陽燈の加減の研究が成功すれば 二ヶ月で稲の栽培ができる
一年に六回 工場の中で 五段式の棚栽培で 米ができるのだ
今に みんなをびっくりさせてやるぞ 世界中の人を しあわせにしてやるぞ
村中共同で仕事をするから 財産はみんな村のもの
貧乏のうちなんか どこにもいない
子供の乳がなくて心配している人なんかもない
みんなが仲よく助け合い 親切で にこにこして うたをうたっている
みんながかしこくなるよう うんと勉強させてやる
学校は 村じゅうで一ばんたのしいところだ
運動場も 図書館も 劇場もある  ここでみんなが かしこくなっていく
これがぼくらの村なんだ こういう村はないものだろうか
こういう村は作れないものだろうか いや作れるのだ 作ろうじゃないか
君とぼくとで 作ろうじゃないか 君たちとぼくたちとで作っていこう
きっと できるにきまっている
一度にできなくても 一足一足 進んでいこう
だれだって こんな村はすきなんだろう
みんなが 仲よく手をとりあっていけばできる
みんながはたらくことにすればできる
広々と明るい春の農場を 君とぼくと トラクターでのりまわそうじゃないか


これが松三郎の小学校6年生の詩です。
松三郎は1944年(昭和19年)南シナ海で雷撃をうけて19才で戦死する。
寒川氏は獄中からもどり戦後その死を知る。
寒川氏の文章の中に「松三郎、又三郎、何て似た名前だろう。松三郎にも又三郎を思いうかべるようなところがある。だまっているが、何か底知れぬ力を持っているところ、不屈で、不思議な野性味にみちたところ・・・」
農村の理想を掲げてつづった松三郎、嘉内の二人の少年の姿、そして宮沢賢治。
このことについて更に研究を深めたいと思っている。

(記:むこちゃん)
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小作人の子孫

太郎良信先生が1996年に教育資料出版からお出しになった、
『「山芋」の真実』という本は、学習の参考になると思います。
2004年に、新潟の一部教育者が、太郎良先生の論証に実証的に反論しようとしましたが、果たせなかった経過が、文教大学文学部紀要所収の太郎良論文で読めます。
私個人としては、『山芋』の良さは、寒川先生が戦後に書いていようが、色褪せないし、
百姓が書いたか、大関君が戦死したかで評価は左右されないと思っております。
研究頑張って下さい!
by 小作人の子孫 (2012-02-01 18:09) 

azalea

この記事の執筆者が今は当ブログから離れているので、コメントへの返信はないかもしれませんが、情報として拝承させていただきました。
ありがとうございました。
by azalea (2012-02-01 19:55) 

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