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保阪嘉内をめぐる人々 (その3) 林 髞 [人物に関すること]

保阪嘉内をめぐる人々 その3
林髞(はやし たかし 1897-1969年) 筆名:木々高太郎(きぎ たかたろう)
甲府中学の同級生 大脳生理学者、小説家(第4回直木賞受賞者)

林髞は1897年西山梨郡山城村下鍛冶屋(現甲府市下鍛冶屋町)に生まれる。県立甲府中学校(現山梨県立甲府第一高等学校)へ入学。中学時代は弁論部に所属し、校友会雑誌へも投稿する文学青年であった。1915年(大正4年)に卒業した後は上京して福士幸次郎に師事し、金子光晴やサトウ・ハチローらとも親交を持ったが、家業である医学の道へ進み、1918年(大正7年)に慶應義塾大学医学部予科に入学。

1924年(大正13年)に同大学医学部を卒業、生理学教室助手に採用される。1932年にはレニングラード(ペテルブルク、現ロシア連邦)へ留学、イワン・パブロフのもとで条件反射学を研究する。翌年5月には帰国。
帰国後は新聞への医学随筆を執筆し、1934年(昭和9年)には科学知識普及会評議員となり、海野十三、南沢十七の勧めもあり「木々高太郎」のペンネームで、「新青年」11月号に探偵小説『網膜脈視症』発表。
「新青年」へ数々の短編を発表し、1936年(昭和11年)には海野らと「探偵文学」を創刊し、のちに探偵小説の専門誌「シュピオ」(ロシア語で「探偵」の意味)となる。1937年(昭和12年)には『人生の阿呆』で第四回直木賞を受賞している。

1946年には慶應義塾大学医学部教授。戦後には執筆活動も再開し、翌年には『推理小説叢書』を監修し、のちに定着する「推理小説」という言葉を用いている。1951年(昭和26年)には復刊された「三田文学」の編集委員となり、松本清張らを輩出。
1953年には日本探偵作家クラブ(現・日本推理作家協会)の第3代会長に就任。1960年(昭和35年)に『頭のよくなる本』発表し、「頭脳パン」を提唱。72歳で死去。

林髞は保阪嘉内と甲府中学の同級生で共に弁論部に所属し校友会雑誌に投稿するなど文芸を語り合った仲間である。この時代のことを林は随筆集『昨日の雪』に「故郷とその中学」という文章を書いている。そこには「甲府中学の五年生ともなると県下の文化を一身に背負うといった観がありその思い出を快いものに思う。校長が大島正健という人で根は自由主義の人、思想上の束縛などは一つもなく内村鑑三、木下尚江などの本を読み、ニーチェやショーペンハウエル、さてはトルストイやドストエフスキーの翻訳を自由に読んだ。キリスト教の教会や芝居や映画などにも自由に出入りした。英語の先生に野尻抱影(大佛次郎の実兄)という人がいて三年生になるとその人から英語を習うのだと言って先輩からいくども聞かされているところを見るとこの人が相当の影響を与えていたであろう。(註 実際は2年の時に転任してしまった)」と書かれている。嘉内と同様に甲府中学での自由な校風と校長や教師達の薫陶、文学や演劇から学んだことが基礎となり文学的才能が開花したのであろう。
その後の二人の交友は続き嘉内が盛岡から帰省する際、東京でも会っていたようだ。

嘉内に宛てた書簡も現存している。嘉内の結婚の通知の返礼としてお祝いの言葉を贈り、「東京に遊びに来た際には寄ってくれるように」とも書いてある。また1933年(昭和8年)の年賀状はレニングラードのパブルフ医学研究所から都下東久留米村の日本青年協会武蔵野道場に送られている。
文学的な交流は明らかではないが、奇しくも嘉内が亡くなった1937年2月に林は直木賞を受賞している。もしそのことを知っていれば友の受賞を嘉内も喜んでいたことであろう。


木々高太郎(1937年)


林髞の書簡(保阪嘉内宛)

■この記事は、実行委員の向山三樹氏から提供いただきました。


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