岩手訪問記(岩手大学編 その2) [アザリア記念会の活動]
さて、いよいよこの日のメイン・イベントである岩手大学 宮澤賢治センターの12月定例研究会の時間となりました。
この日は保阪庸夫氏による講演「杜陵の二春秋-嘉内と賢治の盛岡高農時代-」が行われます。
冷たい雨の降る中を会場となっている盛岡市産学官連携研究センターに移動します。
講演にはまだ少し時間がありましたが、会場のロビーに設けられた受付には続々と参加者がやってきて、関心の高さがうかがえました。
会場にやってくる人の中には、もちろん見知った方もいらっしゃいます。
今年の4月に韮崎を訪れた平山前岩手大学長が満面の笑みをたたえ、「いや~、よくお越しくださいました」と大喜びで保阪氏と再会の握手。
再会を喜ぶ平山前岩手大学長と保阪庸夫氏
平山前学長は、4月に一度お目にかかっただけの私たち〝供の者〟の名前もしっかり覚えていてくださり、感激!
さて、いよいよ17:00の開始時刻になりました。
会場は100名ほどの参加者が今か今かと講演が始まるのを心待ちにしていました。
講演する保阪氏 その1
講演する保阪氏 その2
講演は保阪庸夫氏が盛岡高等農林学校時代の保阪嘉内の動勢についてまとめた草稿「杜陵の二春秋-嘉内と賢治の盛岡高農時代-」の中からいくつかの話を紹介するという形で行われました。
保阪氏が取り上げたのは次の3つの話でした。
■除名放校のこと
賢治からの手紙によって嘉内は大正7年3月13日に学校を除名になったことを知ったが、その背後に何があったのか。
除名につながったと思われる嘉内の行動について述べながら、このこと(除名)があったおかげで賢治からの73通の手紙が残ったことや、その手紙によって、そこに率直に現れた賢治の人柄がよい面も悪い面も、明るい面もくらい面も、激しい面も優しい面もよくわかる。
■『真宗聖典』のこと
『漢和対照妙法蓮華経』によって賢治は法華経の世界に入ったが、すぐに法華経の熱烈な信者になったわけではない。
賢治が嘉内に贈った本の一つに『真宗聖典』があり、それは大正6年3月に発行されたものである。
この本の存在から考えると、この時期に賢治は真宗の教典と法華経を読み比べた結果、真宗から法華信仰へと移っていったように考えられる。
■賢治との二度目の岩手山登山
賢治と嘉内は大正5年6月に岩手山に登山しているが、この時はほかに同行者があった。しかし、その翌年の6年7月の登山は賢治と嘉内の二人きりであった。
嘉内はこの時のことを「岩手山紀行(心のなかの)」という79首の短歌に記しているが、それを読むと、あかりの消えてしまいまるで銀河の中を進むような登山であったことがわかる。
その時には、賢治と嘉内は同じ道を進もうとしていた。
やがて賢治は日蓮主義の教団へ入会するが、その教団の考え方に嘉内は違和感を持ったのではなかったか。
そうした話のあと、賢治は感情は詩として発散させ、理論のあるものは物語としてまとめ、解決し得ない黒いわだかまりのようなものは、ただ「南無妙法蓮華経」と唱えることで処理しようとしたのではなかったか――と最後をまとめられました。
その後は、質問タイムとなり、嘉内の人柄のことなどについて多くの質問が寄せられ、質問は講演に続いて行われた茶話会の間もずっと続いていました。
茶話会の様子。参加者は普段の3倍くらいの人数だったそうです
一日中話し続けていた保阪庸夫氏、きっと相当にお疲れのことだったと思います。
(記:azalea)
この日は保阪庸夫氏による講演「杜陵の二春秋-嘉内と賢治の盛岡高農時代-」が行われます。
冷たい雨の降る中を会場となっている盛岡市産学官連携研究センターに移動します。
講演にはまだ少し時間がありましたが、会場のロビーに設けられた受付には続々と参加者がやってきて、関心の高さがうかがえました。
会場にやってくる人の中には、もちろん見知った方もいらっしゃいます。
今年の4月に韮崎を訪れた平山前岩手大学長が満面の笑みをたたえ、「いや~、よくお越しくださいました」と大喜びで保阪氏と再会の握手。
再会を喜ぶ平山前岩手大学長と保阪庸夫氏
平山前学長は、4月に一度お目にかかっただけの私たち〝供の者〟の名前もしっかり覚えていてくださり、感激!
さて、いよいよ17:00の開始時刻になりました。
会場は100名ほどの参加者が今か今かと講演が始まるのを心待ちにしていました。
講演する保阪氏 その1
講演する保阪氏 その2
講演は保阪庸夫氏が盛岡高等農林学校時代の保阪嘉内の動勢についてまとめた草稿「杜陵の二春秋-嘉内と賢治の盛岡高農時代-」の中からいくつかの話を紹介するという形で行われました。
保阪氏が取り上げたのは次の3つの話でした。
■除名放校のこと
賢治からの手紙によって嘉内は大正7年3月13日に学校を除名になったことを知ったが、その背後に何があったのか。
除名につながったと思われる嘉内の行動について述べながら、このこと(除名)があったおかげで賢治からの73通の手紙が残ったことや、その手紙によって、そこに率直に現れた賢治の人柄がよい面も悪い面も、明るい面もくらい面も、激しい面も優しい面もよくわかる。
■『真宗聖典』のこと
『漢和対照妙法蓮華経』によって賢治は法華経の世界に入ったが、すぐに法華経の熱烈な信者になったわけではない。
賢治が嘉内に贈った本の一つに『真宗聖典』があり、それは大正6年3月に発行されたものである。
この本の存在から考えると、この時期に賢治は真宗の教典と法華経を読み比べた結果、真宗から法華信仰へと移っていったように考えられる。
■賢治との二度目の岩手山登山
賢治と嘉内は大正5年6月に岩手山に登山しているが、この時はほかに同行者があった。しかし、その翌年の6年7月の登山は賢治と嘉内の二人きりであった。
嘉内はこの時のことを「岩手山紀行(心のなかの)」という79首の短歌に記しているが、それを読むと、あかりの消えてしまいまるで銀河の中を進むような登山であったことがわかる。
その時には、賢治と嘉内は同じ道を進もうとしていた。
やがて賢治は日蓮主義の教団へ入会するが、その教団の考え方に嘉内は違和感を持ったのではなかったか。
そうした話のあと、賢治は感情は詩として発散させ、理論のあるものは物語としてまとめ、解決し得ない黒いわだかまりのようなものは、ただ「南無妙法蓮華経」と唱えることで処理しようとしたのではなかったか――と最後をまとめられました。
その後は、質問タイムとなり、嘉内の人柄のことなどについて多くの質問が寄せられ、質問は講演に続いて行われた茶話会の間もずっと続いていました。
茶話会の様子。参加者は普段の3倍くらいの人数だったそうです
一日中話し続けていた保阪庸夫氏、きっと相当にお疲れのことだったと思います。
(記:azalea)
2008-12-21 00:04
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