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保阪嘉内が眺めた山 その4 茅ヶ岳 [ゆかりの地]

保阪嘉内が一番眺めた山、それは八ヶ岳ではなく茅が岳ではないかと思う。嘉内の生家からみて東側に見える山であり朝は真っ先にみる山である。登山するにしても生家から3時間ほどで山頂に到着する。身近な山として登山の入門期に何度か登っている。

茅が岳は目を引く山ではない、どうしても八ヶ岳より見劣りする。
韮崎駅に降りると真っ先に見えるのが茅が岳。知らない人は「あれが八ヶ岳ですか」と間違える。だから「にせ八ッ」とも言われる。標高は1704m、韮崎市からも、北杜市明野町からも甲斐市敷島方面からも登山道はある。
私は茅が岳の麓に住んでいるので何回か登山しているが、近年の混み方は尋常ではない。
土日は常にマイクロバスの団体客やら乗用車で登山口の駐車場はいっぱいになる。
都心からも車で2時間、頂上まで2時間の手軽な登山コースだからだ。
そしてこの山を 有名にしたのは、日本百名山を著した深田久弥氏の終焉の地となったからだ。
深田久弥は百名山に茅が岳を選定してはいない。しかし著書の「わが愛する山々」の中に「わたしの宿題の一つである茅が岳」と書き記してある。「人知れず存在していて擦れたところの内ない山」「非流行のやま」を好んで登ることを深田氏は好んだようだ。
その最適の山が茅が岳だった。1971年3月21日の午後1時ごろこの宿題の山茅が岳で亡くなる。
 
この救出に向かったのが保阪庸夫氏である。
韮崎外科(現在の韮崎総合病院)の医師であった保阪氏は看護婦と共に酸素ボンベをかついで救出に向かったが到着したときには既に亡くなっていたという。
茅が岳の登山口には深田公園があり「百の頂に百の喜びあり」という深田久弥の言葉が刻まれている。いろいろな因縁がある茅が岳は今日も朝陽に夕陽に輝きながら藤井平を見下ろしている。

保阪嘉内の同世代で甲府中学の一年先輩、茅が岳の麓の韮崎市穂坂町三ツ沢出身の平賀文男という人がいる。
この人物については後日ふれたいが「赤石渓谷」(日本山岳名著全集10)に収録、「日本南アルプス」(博文館)などを著し甲斐山岳会、白鳳会の創始者として知られる。
嘉内も山岳会に誘われたようだが加わらなかったよう
だ。


藤井平からみる茅が岳


深田公園記念碑

(記:むこちゃん)


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