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保阪嘉内をめぐる人々 (その2) 浅川 巧 [人物に関すること]

保阪嘉内をめぐる人々 (その2)
浅川 巧 1891年~1931年
   朝鮮の土となった日本人 木喰上人、柳宗悦を通しての交流

浅川巧は1891年(明治24年)に山梨県高根町(現北杜市)に生まれる。嘉内の5才上になる。山梨県立農林学校を卒業すると、秋田県の大館営林署に勤務し、1914年(大正3年)、23歳の時に兄の伯教(ノリタカ)を慕って朝鮮に渡り、朝鮮総督府山林課に勤務する。兄・伯教と親交のあった柳宗悦に朝鮮の民芸や工芸を紹介している。

朝鮮にとって厳しい時代背景にもかかわらず、その美しさを生み出した朝鮮民族を敬愛し朝鮮民族のために美術館の設立を計画し「朝鮮民族美術館」を京城の景福宮内に開設する。巧は本業の林業技術者としても活躍し、1922年(大正11年)に林業試験場が設置されると「朝鮮松の露天埋蔵発芽促進法」を開発、禿山の緑化などにおいても功績を残した。

1931年(昭和6年)に「朝鮮陶磁名考」を著したが、その年の4月2日、巧は急性肺炎のため、40年の短い生涯を閉じた。生前の巧は朝鮮と朝鮮人を理解することに努め、進んで朝鮮語を学び流ちょうな朝鮮語を話し、日常生活でも朝鮮の民族服や木履を身に付け、心から朝鮮を愛していた。ソウル市郊外の忘憂里にある巧の墓には「朝鮮の山と民芸を愛し韓国人の心の中に生きた日本人ここ韓国の土となる」と韓国語で刻まれ、今なお韓国の人々に敬愛されている。巧については「朝鮮の土となった日本人」高崎宗司(草風館)に詳しくまとめられている。

二人の共通点はまず八ヶ岳山麓の厳しい風土の中で生まれ育ったことである。山梨県の峡北地域といわれるこの地の自然と風土に育まれた感性がそれぞれの立場での活動の原点になったであることが考えられる。もう一つは先祖が俳諧の分野で活躍していたということである。浅川巧の祖父・小尾四友は芭蕉の流れを汲む蕉風蕪庵六世として活躍し俳句や連歌を残している。父が巧の産まれる前に死去したために祖父に育てられたのでその影響は大きい。保阪嘉内の先祖の和秀(1725年から1781年ごろ活躍)は韮崎の俳人としては俳書に初めて名前が出された人物である。また和秀や先祖の俳句(父善作など)は当麻戸神社の献詠額に名前が見られる。二人に中の先祖や地域から育まれた文学的素養を見逃すことはできない。もう一つは二人が会ったという文章は残っていないが共通の知人柳宗悦や小宮山清三らと共に木喰上人の研究を通して関わっていたということである。木喰仏とは山梨県下部町丸畑(現身延町)出身の木喰五行上人が全国を行脚しながら各地に残していった一木造の仏像をいい微笑を浮かべた柔和な像が多い。
浅川巧は柳宗悦、小宮山清三らと共に木喰仏に美術的価値を見出し調査・研究を進めるが、当時山梨日日新聞記者だった保阪嘉内が「木喰仏が世に出づるまで」「木喰上人特集号」などの連載・特集記事に関わっていたという関係がある。
巧は同行しなかったが諏訪長地に柳、小宮山らが講演に行った際に同行し新聞記事を書いたという嘉内の日記も残されている。
そして木喰五行上人研究会に巧も嘉内も名を連ねており研究会で同席していたことも考えられる。巧は朝鮮で木喰仏写真展を開催したり日本に戻っていた際には丹波地方に柳らと調査旅行に出かけている。嘉内は藤井青年訓練所主任時代には「木喰上人の生涯について」の講演も行ったり、日本青年協会の機関誌「アカツキ」にも木喰上人のことを執筆したりしている。巧も嘉内も40歳で亡くなるが、二人をつないでいる共通のものに我々は気づかされるであろう。賢治も木喰仏を知っていたならばおそらく共感するものがあったに違いない。


浅川 巧

■この記事は実行委員の向山三樹氏から提供いただきました。


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