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保阪嘉内をめぐる人々(その1) 山内不二門 [人物に関すること]

シリーズ「保阪嘉内をめぐる人々」
保阪嘉内自身も非常に魅力ある人物ですが嘉内をめぐる人物も非常に興味深い人物がたくさんいます。
そこで、「保阪嘉内をめぐる人々」と題し、嘉内と親交を持ち、共に仕事をした人々にも焦点をあてていきたいと思います。

その1 嘉内と共に農村副業を研究 我が国最初の謄写版発明者 山内不二門  一八六六年(慶応二年)~一九五九(昭和三十四年)

 山内不二門(啓二)は宮城県桃生郡中島村(石巻市中島)に父・新平(神職)、母・やす の子として生まれた。九才の時に父と死別しその後宮城県内及び東京で奉公先を転々とした後に書家と称して学校ごとに看板の揮ごうを請い揮ごう料をもらい放浪していた。
新潟県の虫川村(現糸魚川市)で四年間代用教員をした後宮城県で小学校の訓導の試験に合格し宮城県内の小学校教師を勤めたが真言宗を宣伝したという理由で免職された。
この時僧籍に入り不二門と改名している。

 不二門は放浪の中で勉学に励み、様々なものに関心を持ち自分で身近な材料を使い実験・発明を試みる中で硫化物を和紙に塗り、灰で字を書いたところその部分だけ紙が透けて見えることを発見しこれが毛筆謄写版の発明となった。この原理は鉄筆謄写版や印刷機の原理として生かされている。
 謄写版販売は日露戦争時に急速な売り上げ増加を見、陸海軍用にも活用され全国に十七支店を持つ大気堂へと発展していく。謄写版販売で各地を歩く中で後藤新平(初代満鉄総裁、東京市長)や斉藤実(朝鮮総督府長官、二・二六事件の時の内大臣)とも深い親交を結んだ。
 後藤新平がドイツ土産としてくれた軽便印刷機を日本でも製作するために膠土を作り、コンニャク版といわれる印刷機も発明した。
 昭和52年には全日本謄写印刷連盟から我が国初の謄写版印刷者としての顕彰状が送られている。
その他発明家として海水石けん、砂鉄精練、アミノ酸しょう油等の開発を行った。

 保阪嘉内とは、嘉内の妻・さかゑが雨中につえつく老人を見て傘をさしかけたことが機縁で、豊島区雑司が谷にある山内不二門の家作に移ったことから付き合いが始まる。日本青年協会退職後には農村副業を手がけていきたいと考えていた嘉内と協力して砂鉄精練、アミノ酸しょう油、謄写版の開発と普及を行った。
 不二門は山梨の増富温泉に旅行に来ていたが、韮崎市の嘉内の実家に立ち寄ったり、嘉内の死後にも父善作にあてた手紙が出されていることから保阪家との交流は続いていたと思われる。
 保阪家には不二門の写真、書簡、コンニャク版で刷った印刷物等が残されている。
山内不二門については孫の山内玄人氏(東京都町田市在住)が「伝記山内不二門」「水沢・江差時代の不二門」「若き日の不二門ゆかりの地虫川(新潟県糸魚川市)を歩く」の冊子を製作している。


山内不二門

■この記事は実行委員の向山三樹氏から提供いただきました。


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