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隅田川 [作品に関すること]

花見の季節です。
近所の公園でも毎年「桜まつり」と称したイベントがあるのですが、節電と自粛で取りやめになってしまいました。
それでも桜はちゃんと咲いてくれます。
人出や喧噪が少ないほうが桜の美しさをゆっくりと楽しめるので良いかも・・・と思いつつ公園に出かけてみたら、予想に反してなかなかの人出がありました。
やはり花見は春の風物詩として欠かせないという人が多いようですね。

桜.jpg
(*近所の公園の桜です。隅田川でなくて済みません・・・)

さて、今回は賢治さんの文語詩の中から「隅田川」という花見をうたった作品を取り上げて、思うことを書いてみます。

      隅田川

   水はよどみて日はけぶり
   桜は青き 夢の列
   汝は酔ひ痴れてうちおどる
   泥洲の上に うちおどる

   母をはるけき  なが弟子は
   酔はずさびしく そらを見る
   その芦生への  芦に立ち
   ましろきそらを ひとり見る


この文語詩は賢治が大正10年4月に作った短歌を元にした作品と考えられています。
「歌稿B」には「大正十年四月」の作品群の中に「東京」と題して、

  エナメルのそらにまくろきうでをささげ、花を垂るるは桜かあやし 
               ※
  青木青木はるか千住の白きそらをになひて雨にうちよどむかも。
               ※
  かゞやきのあめにしばらくちるさくらいづちのくにのけしきとや見ん。 
               ※
  ここはまた一むれの墓を被ひつゝ梢暗みどよむときはぎのもり。
               ※
  咲きそめしそめゐよしのの梢をたかみひかりまばゆく翔ける雲かな
               ※
  雲ひくく 桜は青き夢の列 汝は酔ひしれて泥洲にをどり。
               ※
  汝が弟子は酔はずさびしく芦原にましろきそらをながめたつかも

といった一連の歌(805~811)を詠んでいます。

これらの歌からは花見の舞台は千住方面で、そばには隅田川が流れており、川岸には「泥州」や「芦原」があり、附近にはお寺もある様子がうかがえます。
文語詩「隅田川」の舞台にはいろいろな説があるようですが、これらの短歌を手がかりに考えるなら千住大橋あたりの「掃部堤」と呼ばれる場所が一番可能性が高いように思われます。
http://www.senjumonogatari.com/sakura2003.htm
2首目の「はるか千住の白きそらを」という言葉からは、千住大橋の南側から千住の桜を遠望したような感じも受けます。

「汝」とうたわれた人物は作者の師にあたる人物で、どうもお酒が好きなようです。
「汝=国柱会の誰か」と見ることもできなくはないかも知れませんが、酒を飲んで踊るという記述から定説となっているように「汝=関豊太郎博士」と見るのが自然な感じがします。

そして、花見の最中に雨が降っています。
花見に出かけたくらいですから、降ったとしても小雨だったと思います。
昼ごろから夜にかけて雨の降った4月7日、8日、12日、午前中から昼前にかけて雨の降った13日などが考えられます。
ただし、いずれも平日であるため、賢治自身はともかく西ヶ原の農林省農事試験場に勤務していた関博士は普通に出勤していては花見はできません。
関博士は職場を離れて自由に出歩ける立場にあったとか、平日でも毎日出勤する必要はなかったとか、あるいは休暇を取った等々、いろいろと想像はできますが・・・。
ちなみに、千住大橋の最寄り駅の三ノ輪には、西ヶ原から王子電気軌道(現在の都電荒川線)で1本で行けます。

それでは、「汝が弟子」とは誰なのでしょうか?
短歌からは、「汝が弟子」とは作者である賢治自身と読むのが一番自然な気がします。
ところが、もう一つ「汝が弟子」とは保阪嘉内であるという説があります【注】。
それは、文語詩「隅田川」の第2聯の初めの「母をはるけき」のところが、下書稿の第一形態では「甲斐より来ける」となっていたことに拠っています。
確かに賢治の身の回りで甲州出身の人物といえば、保阪嘉内のことになるのですが・・・。
しかし、この部分は「甲斐より来ける→越より来ける→奥野に生れし→越路に生れし→都ならはぬ→ふるさと遠き→母をはるけき」と何度も書き直されており、一度は「甲斐より来ける」と書いたものの、そのことにはあまりこだわっていないように感じられます。
「甲斐より来ける」から「越路に生れし」にかけては、どちらかといえば語呂や言葉の響きなどを探っているような気がします。
また、推敲の果てにたどり着いた「母をはるけき」という言葉からは、その直前に書いた「ふるさと遠き」と関連させれば、故郷にいる母と遠く離れて暮らしている人物(おそらくは当時の作者自身)が浮かんできます。
「母をはるけき」を母と死別したことの意に取るのは、どうも深読みが過ぎるように思えてなりません。

残念ながら保阪嘉内の『国民日記』は4月5日~8日と13日~16日の部分が破棄されていて、肝心の部分の動向が確認できません。
花見の歌も4月10日や17日のページに見えますが、甲府の舞鶴城公園の桜を詠んだものと思われ、また桜に寄せて「晴れ渡る四月のはな(桜)に君思へばはらはらと散るぞは風のまにまに」などとある女性への思いを詠んでいます。
現存する日記のページを見る限り、4月3日に東京で会ったこの女性のことはその後も繰り返し書かれているものの、関博士や賢治を懐かしむような記述は出てこないこと、当時の保阪嘉内は山梨県教育会に勤務するサラリーマンであったことなどから、仕事を休んで関博士と賢治の花見に同席したと考えるのはどうも無理があるように感じます。
したがって、この部分は甲州にいる保阪嘉内の心情を思いやったものではないか……と何年かのあいだ理解してきました。

長々といろいろなことを書いてしまいましたが、いずれにしてもこうした素材となった出来事があったとしても、素材はあくまでも素材です。
創作された作品は一枚の絵のように、素材を元に現実とは違う一つの世界をそこに作っていると思うのです。
素材になかったものを描き足すこともあるでしょうし、消してしまったものや変えてしまったものもあるでしょう。
やはり天沢退二郎さんも指摘したように、作品はあくまでも作品として現実の出来事とは峻別して味わうべきではないでしょうか。

文語詩「隅田川」も素直に賢治さんが記したまま、水をたたえた隅田川のほとりに咲く桜の様子や、お酒を飲んで良い気分になって泥州に出て踊る師、酒を飲まずに遠く離れた故郷に居る母のことを思いながら芦原に立って師のさまを眺めている弟子(おそらく作者=賢治)・・・そんな花見の情景を思い浮かべながら読むのが一番しっくりくるように最近は思っています。

桜2.jpg

【注】
小野隆祥『宮沢賢治冬の青春』洋々社、1982年。
宮沢賢治研究会編『宮沢賢治 文語詩の森 第2集』柏書房、2000年。



(記:azalea)
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にじ

わたしのパソコンのインターネットのトップ頁には幾つかのお気に入りのブログの頭が出ています。朝スイッチを入れると、あらまあ、「隅田川」とあったので、気になってお邪魔しました。
朝一番で面白い原稿、読ませていただきました。
わたしには知らないことばかりですが、とても興味深かったです。
それに、昨年行った舞鶴城公園も、懐かしく思い出しました。といっても当時とはものすごく変わっているようですけれど。

桜って特別の花ですね。春はまた特別の季節。今年は特に。

写真の桜はどこなのかなあ。

by にじ (2011-04-11 08:17) 

azalea

いやあ、いつもチェックいただいて光栄です(^^)
それではがんばって更新するように努めなければなりませんね~。

今回は、この詩についていろいろ思っていることをまとめてみました。
何年か前には、この詩の後半は一人離れて甲府にいる保阪嘉内のことを偲んだものかとも考えていましたが・・・。

震災から1か月・・・。
今年は例年にも増して桜に元気づけられたり、癒された人は多いことでしょう。
舞鶴城公園は、甲府の花見スポットなのだそうですよ。
一度桜の季節にでかけてみたいのですが、なかなか実現できないでいます。

ちなみに写真の桜は、残念ながら隅田川ではなくて近所の公園です。
説明が足りずにすみませんm(_ _)m
(記事にも書き足しておきました)
by azalea (2011-04-11 21:20) 

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