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とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く [作品に関すること]

「とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く」という賢治の詩「習作」に書かれているものと同じ詩句が、保阪家で歌われてきた家庭歌の歌詞の一節にもなっていることについては、2006年に講演の中で触れたことがありますので、ご記憶のある方もあるかも知れません。

習作1.jpg

習作2.jpg

そのころはこの詩句を賢治と嘉内をつなぐものとして論じようというような人はほかにいなかったのですが、このところsignalessさんhamagakiさんのブログでずいぶん話題になり、私の話も出てきました。そこで、私の考えを間違って受け取られないように、その時に話したこと(といっても十分な根拠がないため余談のようなものですが)を一通り記しておこうと思います。
十分に原稿を練る余裕がなく、雑駁なもので恐縮ですがご覧いただければ幸いです。

「とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く」
賢治は、「カルメン」の劇中歌の一つである北原白秋作の「恋の鳥」の1番(捕へて見ればその手から/小鳥は空へ飛んでゆく)と3番(捕えよとすれば飛んでゆく/逃げよとすれば飛びすがり)をミックスしたような詩句を「習作」の中に記しました(註1)
これは賢治の記憶違いでしょうか、それとも何か意味があるのでしょうか。
私は、これが大正8年に賢治と嘉内が再会したことを物語っていることの一つではないかと考えています。
ではなぜ、そう考えるのかと言えば、当時としては流行歌であった「恋の鳥」の歌詞を賢治も嘉内も同じように間違えるとは思えないからです。
しかも賢治はこの詩句をアンダーラインを引いた上に右から左に横一列に書くという、ずいぶん目立った書き方をしています。
そこには何らかの意図があると思わざるを得ません。

ここで賢治の書簡を見ると、大正9年7月22日付け保阪嘉内宛の書簡166に「東京デオ目ニカゝッタコロハ」という文言があります。これは大正7年12月31日付け保阪嘉内宛の書簡102で賢治が「私は一月中旬迄は居なけばならないのでせう。/あなたと御目にかゝる機会を得ませうかどうですか」と嘉内に再会を持ちかけていることと対応するものと考えてよいのではないでしょうか。
大正8年、東京では1月1日から芸術座で松井須磨子主演の「カルメン」が上演されました(その松井須磨子は1月5日未明に自殺し、公演は中止になってしまいますが)。「恋の鳥」はその劇中歌の一つで、当時の流行歌ともなりました。
おそらく二人が大正8年に再会した時、一緒に「カルメン」を見たか(註2)、あるいは「カルメン」か「恋の鳥」について語りあった(松井はトルストイ原作の「復活」を演じていますし、嘉内は白秋の作品を好んでいたので十分あり得ることと思います)ことがあったのではないでしょうか。
その時、おそらくは嘉内が「僕なら1番と3番を一緒にして『とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く』とするけどな。その方が絶対にいいよ」みたいなことを言った。
賢治は「習作」を発想した時、その嘉内の言葉を思い出した。
もしかしたらその時の賢治の心の中には「恋の鳥」の旋律が流れていたのかも知れません。
さらには、その再会の時に話題となった諸々のこと(たとえばsignalessさんが推測されているように書簡102aにつながることなど)も思い出したかも知れません。
そして、賢治は上述のようにして「習作」にその詩句を記した。
この詩を含む『春と修羅』が嘉内の元に賢治から送られ、嘉内は「習作」を読んでニヤリと笑った・・・というのは想像しすぎですが、そんな感じで賢治を懐かしく思い出したのではないでしょうか。
(この時なにがしかの手紙も本と一緒に入っていたかも知れません)
「『とらよとすればその手からことりはそらへとんで行く』か、懐かしいな。そういえば、そんなことがあったな。賢治さんは、覚えていてくれたんだねえ・・・」
この詩の中に、二人にしかわからない暗号のようなものが隠されているとすれば、そういうことではないかと思います。

嘉内は『春と修羅』を開き「習作」を目にするたびに、賢治と東京で大正8年に再会した時のことを思い出し、やがてその詩句に自分の賢治への思いを交えて歌を作った。
それがどの時点のことかは今のところ見当がつきませんが、早ければ『春と修羅』が刊行された大正13年のこと、遅ければ嘉内が賢治の没後に花巻を訪ねたころのことのような気がします。
このようにして生まれたのが、保阪家の家庭歌(「勿忘草の歌」という題は保阪庸夫氏が2007年に付けたものです)として伝わっている歌ではないでしょうか。

要は、
(1)『春と修羅』所載の「習作」に記された標記の詩句は賢治から嘉内に宛てたメッセージのようなものであり、それを汲み取った嘉内が同じ詩句を使って家庭歌を作ったのではないか
(2)そのメッセージは大正8年に賢治と嘉内が再会したことに由来するものと思われる
ということですが、いずれもまだまだ想像の域を出るものではありません。
また、保阪家の家庭歌には上田敏の『海潮音』の詩句(ウィルヘルム・アレント原作の「わすれなぐさ」)も取り入れられていますし、家庭歌の旋律は「恋の鳥」とは全く異なるもの(強いて言えば「精神歌」に似ているように感じます)ですので、きちんと論ずるにはそのあたりの考察も必要になってくるでしょう。

現時点では思いつきのようなものにすぎませんが、私はこんなふうに考えています。
「恋の鳥」についてはこちらをごらんください。


(註1)
d-scoreには『世界音楽全集19「流行歌曲集」』(昭和6年発行)掲載の歌詞が転載されており、本稿では暫定的にこれに従っています。それを見ると北原白秋の「恋の鳥」の3番は「とらよとすれば・・・」ではなく、「捕えよとすれば・・・」となっています。
hamagakiさんからのコメントには、この歌詞は誤りとの御指摘がありますが、d-scoreの誤りと断じるには第一に出典である『世界音楽全集19「流行歌曲集」』と照合する必要があります。
(当時の曲譜集ではそのように記されて流布しているのかもしれませんので、いずれ確認はしたいと考えています)
もし元の歌詞が「捕えよとすれば・・・」であるならば、この部分の違いにも留意する必要があるでしょう。
(註2)
賢治の12月31日付けの書簡に応じて嘉内がすぐさま上京し、一緒に「カルメン」を見たとすれば、ぎりぎり1月4日の公演には間に合うでしょうか。もし嘉内は間に合わなかったとしても、賢治だけでも「カルメン」を見たかも知れません(このことについてはhamagakiさんのブログに詳しい考察があります)。その時、賢治が「恋の鳥」の歌詞を誤って覚えたとしても、『春と修羅』執筆時には正しい歌詞を知り得ていたと思われますので、普通なら「習作」には正しい歌詞が記されるはずです。そういう意味で、「習作」に引用(?)された詩句は、賢治から嘉内へのメッセージであり、嘉内は『春と修羅』を読むことによってそのメッセージを受け取り、歌にしたと私は考えています。
テレビやラジオのなかった時代、レコードや弾き語りなどを通じて「恋の鳥」が巷で流行するにはある程度の時間がかかることを考慮すると、二人とも「カルメン」を見なかったと考えるならば、二人の再会は少し間をおいて2月とか3月のことであったような気がします。
なお、嘉内が少なくとも新聞記者時代に「恋の鳥」の正しい歌詞を知っていたことは、この歌が妻のさかゑさんの愛唱歌の一つであったことからみても間違いないでしょう。にもかかわらず家庭歌の歌詞が「習作」の詩句と同じであるということは、そこに嘉内の意図が反映されていると見るべきでしょう。

(記:sora)
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signaless

なるほど、そう考えると、「とらよとすれば・・・」というフレーズは、決して間違って覚えたわけではなく、ふたりの意図的なものというか、この歌詞でなくてはならない“暗号のような言葉”だというわけですね。言葉に敏感な二人が、そろって間違うとは思われず、片方の間違いを放っておく、というのも確かに考えにくいことです。

by signaless (2010-01-08 18:11) 

sora

このブログを利用して考えを記しておくことにしましたが、意地汚く食べ物の話をしているようが気が楽です(笑)
賢治も嘉内も正しい「恋の鳥」の歌詞を知っていたと思われるのに、二人とも同じように書いているというところには何らかの意図があると感じざるを得ません(嘉内は「海潮音」の歌詞は上田敏の詩句をそのまま歌っていますしね)。
その意図は・・・。
そこから先はsignalessさんにお任せした方がよさそうですね(^^;)
by sora (2010-01-08 21:52) 

azalea

今年の初記事は、soraさんに研究ノート的な記事を書いてもらいました。
(1960年代、70年代ならこれで十分論文になったのでは?)
堅いところもありますが、時にはこういう記事もいいかな・・・と思います。
by azalea (2010-01-09 07:32) 

hamagaki

sora 様、このたびはお騒がせして申しわけありませんでした。中途半端な理解のままにあれこれ思いつきを書いてご迷惑をおかけした、張本人です。m(..)m

これは、二人の友情の有り様についていろいろと空想の翼を広げられる、魅力的なテーマですね。私もいろいろ勝手に想像することはあって、たとえばやはり賢治は「習作」で「とらよとすれば・・・」と書いた際に、これが元の歌詞と違っているという意識はなかったかもしれないと思っているのですが、それはさておき、ここでは気づいたことを二点だけ。

(註1)で、「恋の鳥」の元の歌詞に言及しておられますが、北原白秋の元の歌詞で三番は、「捕らえよとすれば・・・」ではなく「捕らよとすれば・・・」です(岩波文庫『白秋愛唱歌集』など)。「小沢昭一が選んだ恋し懐かしはやり唄四」(COLUMBIA)というCDでも、「とらよとすれば・・・」と唄われています。
上にリンクが張られている d-score というサイトの歌詞が、他の箇所でも微妙に間違っているようで、三番の一行目は、正しくは「捕らよとすれば飛んで行き、」です。

それから、「勿忘草の歌」の旋律に関しては、あえて何に似ているか考えてみると、吉井勇作詞・中山晋平作曲の「ゴンドラの唄」が、私には思い浮かびます。あの「いのち短し 恋せよ乙女・・・」という歌ですね。ただし、「ゴンドラ」冒頭の「いのち短し」の部分と、「勿忘草」の「捕らよとすれば」の部分だけの類似ですが。
「ゴンドラの唄」も、松井須磨子が「芸術座」の新劇公演(1915年(大正4年)の「その前夜」)の劇中歌として唄ってからヒットした曲であるところが、「恋の鳥」と共通しています。
by hamagaki (2010-01-10 14:34) 

sora

hamagaki様
この一件では、すみやかにご対応くださり、ありがとうございました。

私がこの件について言及を避けていた理由は、当時のSPレコードほか関連資料に十分当たった上で、その分析に立ってきちんと文章化すべきという姿勢であったからです。
(資料調査のために1日かけて東京に出ることがなかなかできず、そのままずっと封印したようになっていますが…)

こういう形で中途半端なままで文章化して公開することは、私としては不本意なことではありますが、今回の状況を考えるとやむを得ないと思い早急に記事にしてみた次第です。

d-scoreの歌詞は誤りであるとのことですが、同サイトでは昭和6年発行『世界音楽全集19「流行歌曲集」』を出典としていますので、誤りと断じるにはまずその出典である『世界音楽全集』や公演当時の曲譜集などをきちんと押さえておく必要があるでしょう。
このこと一つ取っても現時点では「恋の鳥」については資料調査不足で、本来ならとても文章化して公開できる段階にはありません。
ただし、hamagaki様がコメントで御指摘になっているようにd-scoreに出典から転載された際に誤りがあった可能性も考えられますので、註1については少し加筆してみました。
いずれ確認はしたいと考えていますが・・・。
by sora (2010-01-10 21:34) 

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