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河本緑石の書簡/書簡4(大正7年7月) [人物に関すること]

【4】大正七年七月七日〔消印大正七年七月九日〕  葉書
   (表)東京市外中渋谷六二六 木村様方 保阪嘉内様
      盛岡市にて 義行拝
      七月七日(七月八日は雫石の河原の思ひ出の日也)

嘉内兄、心は静かにさえながら、はらはらとふる夜の雨をききながら。今しがたまで私はまっくらな闇の底を歩いてゐた。私の心が歩いてゐた。
まが/゛\しい灯が闇に浮んでゐた、私の心は何時までも灯を見つめてゐた。淋しい人間の実体を感じたのだ。淋しくもよりあつまって生きてゐる人間――
あーア淋しさがこみあげて来た。
今日も今日とて、宮沢氏は肋莫[ママ]にて実家に帰った。私のいのちもあと十五年はあるまいと。淋しい限りなく淋しいひびきを持った言葉を残して汽車に乗った。(アザリア発送した)十五日頃東京通過。

《凡例》ブログは印刷物とは異なり、横書きでレイアウトの細かい設定等もできないため、版組は原文を忠実に反映したものではありません。なお、原文の表記のままの部分(誤字・当て字や独特な表記など)は赤字で、明かな脱字は本文内に〔 〕で、2字の踊り字は/\または/゛\で表現しました。またルビは、このブログではrubyタグが使用できないため親文字の後に[ ]に入れて小書きで表示しました。

『アザリアの友へ』30頁(図版四)より。
『友への手紙』119頁にも後半部分(「淋しい人間の」以降)が収録されています。
7月7日の日付がありますが、消印は9日になっているので8日の夜あたりに投函したものでしょうか。
日付の後に「七月八日は雫石の河原の思ひ出の日也」と記していますが、これは言うまでもなく『アザリア』第1号発行をうけ、7月7日に同人が集まって行った合評会のあと、興奮のおさまらない賢治・小菅・保阪・河本の4人が8日の午前0時15分から雫石の春木場に向かって徒歩旅行をしたことをさしています。
この徒歩旅行を保阪は「馬鹿旅行」と名付け、『アザリア』第2号では4人がそれぞれに馬鹿旅行に関する作品を載せています。
また、賢治の初期短篇綴の中の「秋田街道」は、この馬鹿旅行を素材にした作品です。
「七月八日は雫石の河原の思ひ出の日也」という一文には、その思い出を大切にしている気持ちがよく表れているように思います。
「ほんの1年前のことなのに、何だかずいぶん変わってしまったなあ・・・」
これを書いた河本緑石の心中にも、受け取った保阪嘉内の心中にも、そんな思いが去来したのかも知れません。

この葉書の前半は自身の心情の吐露ですが、後半には近況としてさまざまな事柄を伝えています。
まず「宮沢氏は肋莫にて実家に帰った。私のいのちもあと十五年はあるまいと」(「肋莫」は原文のママ)という賢治の動静は、河本緑石・保阪嘉内の二人にとってショックな出来事であったことでしょう。
この年(1918年)の15年後といえば1933年・・・奇しくも賢治の没年です。
よく言われることではありますが、何だか自分の寿命を言い当てているようで不思議ですね。
15年という余命の根拠はどこにあるのかわかりませんが、文面は「私のいのちもあと十五年はあるまいと」ですから、賢治はその15年の余命を精一杯生きたという見方もできそうです。

「アザリア発送した」は、6月末ごろ発行された『アザリア』第6号を郵送したということですが、「した」と過去形になっていますから、この葉書を書いた7月7日には発送しているとすれば、葉書を受け取った保阪嘉内の手元には既にその『アザリア』が届いていたことでしょう。
表の「七月八日は雫石の河原の思ひ出の日也」は、こうしたことにも関係しているように思います。

そして「十五日頃東京通過」ですが、帰省の途中に東京で会いたいというメッセージではないでしょうか。
『アザリア』を何とか復活(それが実質的には最後の号になるわけですが)したこと、賢治の病気のこと、自分自身のこと、さらには母を亡くし受験にも失敗した保阪嘉内のこと・・・・そうしたいろいろなことを河本緑石は保阪嘉内と一緒に話したかったのだと思います。
そして、実際に2人は東京で会ったのだと思います。
保阪嘉内が河本緑石に宛てた大正7年10月22日付の葉書に「次はいつか品川駅にて立話せし事、即ちア誌先号残部あらバ至急二部御送附被下度願上候」と書かれていますが、この「品川駅にて立話」はそのことではないでしょうか。

このように、1枚の葉書の中にも『アザリア』の友たちのつながりがよく表われているように感じられます。
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