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河本緑石の書簡/書簡3(大正7年6月) [人物に関すること]

【3】大正七年六月中旬(推定) 葉書
   (表)東京市外中渋谷六二六 木村方 保阪嘉内様
      ミドリ、高島屋弟。

凍てし地に立つ木しょう/\と風あり、
母とつれて墓までを来夕明りかな、
墓の芥あつめ焼く母と夕べ、
墓より僅に立つ煙暮れてゐたり、
狂人の家に狂人は居らず茶碗が白し、
糸車わくわくと母にめぐりけり、
死んだ児の着物美しう日にほされたり、
とろけし鉄を打ちにうつ鍛冶屋雨の日、
雲を透く光り雪山重なれり、
うすら寒き畠にて生れたり小虫。

《凡例》ブログは印刷物とは異なり、横書きでレイアウトの細かい設定等もできないため、版組は原文を忠実に反映したものではありません。なお、原文の表記のままの部分(誤字・当て字や独特な表記など)は赤字で、明かな脱字は本文内に〔 〕で、2字の踊り字は/\または/゛\で表現しました。またルビは、このブログではrubyタグが使用できないため親文字の後に[ ]に入れて小書きで表示しました。

『アザリアの友へ』29頁(図版三)より。
日付の記入がなく、消印も「日」の部分が消えていて(あるいは極めて薄く)読み取れず、現状では発信日がわかりません。
ただし、差出人を「」と書いてあるのは、前回の書簡【2】で触れた嘉内から歌舞伎「敵討白石噺」の一場面をプリントした5月14日付の絵葉書に対する返信とみて、ここでは「6月中旬」といたしました。
ちなみに「高島屋」とは二代目市川左團次(1880-1940)の屋号で、歌舞伎役者であると同時に小山内薫と共に演劇革新運動を展開した人物です。おそらくは演劇好きの嘉内の贔屓の俳優であったので、緑石はこの書簡で嘉内を「高島屋」と呼んだのでしょう。

裏面には、俳句が10句記されています。
これらの句は『アザリア』第6号に「狂人と茶碗」として掲載されているものですが、『アザリア』発表型ではさらに手が入れられているものもあります。
とりわけ「糸車わくわくと母にめぐりけり」はこのころの緑石の代表作といえるでしょう。緑石の遺句集『大山』の序文で師の荻原井泉水もこの句を「結婚して、新しい家庭生活の恰びを初めて味わった時代」を表現した作品の一つとして取り上げています。
また『アザリア』第6号には、書簡【1】に同封されていた詩2編のうち「一本の草」が掲載されています。

緑石と嘉内の書簡のやりとりからは、『アザリア』第6号が少しずつ形を成していく様子がうかがえるようです。


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