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盛岡高等農林学校職員生徒一行二十五人宿泊ス [ゆかりの地]

大正5年(1916)の9月、盛岡高等農林学校農学科第2部の2年生であった賢治さんは、「地質旅行」と称する課外観察旅行に参加して、埼玉県を訪れました。
宮沢賢治記念館で1994年に開催された企画展「宮沢賢治と埼玉秩父」において、監修者の萩原昌好氏が研究成果を元にそのルートを綿密に推定されていますが、その中で9月4日には小鹿野町の寿旅館に宿泊したと考えられています。

当時は、賢治ら一行が宿泊したことを示す資料は見つかっておらず、あくまでも〝推定〟で、寿旅館も2008年に廃業してしまいました。
ところが、このたび町教育委員会が同旅館の当時の館主の日記を整理していたところ、大正5年9月4日に「盛岡高等農林学校生徒職員一行二十五人宿泊す。三田川村皆本沢へ向かい明日は三峰山と。本日午後盛岡高等農林学校定宿の看板を掲げる」との記述があったそうです。
また、翌5日には「盛岡高等農林学校関先生、神野先生、生徒二十三人を送る」ともあるそうです。
これで、9月4日に寿旅館に宿泊したとする萩原氏の推定が正しかったことが証明されました。

一方、私は同時に氏の賢治ら一行が投宿後に「ようばけ」を見学に行き、「ようばけ」から宿への帰り道に「さわやかに半月かゝる薄明の秩父の峡のかへり道かな」という短歌を詠んだという説には、疑問を感じていました。
なぜなら、9月4日の朝に皆野町の金崎を出発して馬車で小鹿野に向かったとすれば、「ようばけ」はその途中にあるからです。
(もちろん街道からは少し道がそれるので、ちょっと寄り道にはなりますが)
投宿してから「ようばけ」を見るために、わざわざ来た道を戻るのはおかしいのでは?
おそらくは、宿に不要な荷物を置いてさらに奥地へと向かったのでは?
それに「峡」というには「ようばけ」のあたりは谷が開けているような?
・・・と、思っていたのです。
新たに見つかった資料によれば、賢治さんたちは宿(寿旅館)に一旦投宿してから「三田川村皆本沢」に向かったようですね。
そうだとすれば短歌の中の「秩父の峡」は、「三田川村皆本沢」附近ということになります。
そして短歌ともよく合致します。
これで謎が一つ解けた感じがしました。
ちょうど今、その研究ノートの原稿を当時の交通関係の資料を元にまとめていたところでしたので、まさにグッドタイミングでした。

小鹿野町では、この旧寿旅館を観光交流館としてこの秋オープンの予定で整備を進めており、館内には宮沢賢治のコーナーも設けられるそうです。
オープンしたら、ぜひ訪れたいところです。


詳しくは下記をご覧ください。
【朝日新聞】
http://mytown.asahi.com/saitama/news.php?k_id=11000001108030002
【読売新聞】
http://www.yomiuri.co.jp/e-japan/saitama/news/20110802-OYT8T01182.htm
【東京新聞】
http://www.tokyo-np.co.jp/article/saitama/20110803/CK2011080302000052.html
【47NEWS】
http://www.47news.jp/localnews/saitama/2011/08/post_20110803094610.html


小鹿野町の「ようばけ」といえば、宮沢賢治・保阪嘉内歌碑のある「おがの化石館」では、夏休みに合わせて『秩父の大地は語る~地層と化石のドラマ~』という特別展を開催しています。
くわしくは下記をどうぞ。
http://www.town.ogano.lg.jp/news/topics/news.php?mode=detail&id=10099

「賢治の事務所」加倉井さんによる大正5年9月4日の「さわやかに半月かかる薄明」のシミュレーション
http://www.bekkoame.ne.jp/~kakurai/kenji/history/h3/19160904.htm
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