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一〇八八 〔もうはたらくな〕 [作品に関すること]

『春と修羅』第三集に〔もうはたらくな〕という作品があります。


一〇八八
       〔もうはたらくな〕
                    一九二七、八、二〇、
もうはたらくな
レーキをなげろ
この半月の曇天と
今朝のはげしい雷雨のために
おれが肥料を設計し
責任のあるみんなの稲が
次から次と倒れたのだ
働くことの卑怯なときが
工場ばかりにあるのでない
ことにむちゃくちゃはたらいて
不安をまぎらかさうとする、
卑しいことだ
  ……けれどもあゝまたあたらしく
    西には黒い死の群像が湧きあがる
    春にはそれは、
    恋愛自身とさへも云ひ
    考へられてゐたではないか……
さあ一ぺん帰って
測候所へ電話をかけ
すっかりぬれる支度をし
頭を堅く縛って出て
青ざめてこわばったたくさんの顔に
一人づつぶっつかって
火のついたやうにはげまして行け
どんな手段を用ひても
辨償すると答へてあるけ


自分が肥料設計をした稲が天候不順で十分に育たず、とうとう激しい雷雨で倒れてしまった。
天候不順や、激しい雷雨は自然のなせる業であって、稲が倒れたのは決して賢治の肥料設計が悪かったわけではない。
しかし、賢治は肥料設計を自分に依頼してくれた農民たちのところを回り、一人一人に「火のついたやうにはげまし」たり、「どんな手段を用ひても辨償する」と謝るために、今まさに雨の中に飛び出そうとしている・・・。

そんな情景が浮かんできます。
もちろん、作品は作品であって、必ずしも事実そのままではありません。
しかし、ここに綴った自分自身の気持ちには、偽りや脚色などはないだろうと思います。
「何もそこまでしなくても」「そんなふうに思いつめなくても」
賢治さんの悲痛で一生懸命な心境を考えると、ついそんな声をかけたくなるほどです。

実は、先日あるニュースを耳にしたとき、この詩が心に浮かんできました。
それは、K総理が若手議員との飲み会で笑いながら
「お遍路に行きたいな、次の寺が『延命寺』と言うらしいんだよ」
と言ったという話です。
http://abirur.iza.ne.jp/blog/entry/2320116/
そういえば、内閣不信任案の議決の前にも「お遍路」の話が出ていました。
http://www.sankeibiz.jp/macro/news/110603/mca1106030757013-n1.htm

お遍路?
行くところが違うのでは?
少しでもこの国の首相として責任を自覚しているのであれば、行き先は西の方ではなく北の方では?
(もちろん、その場合は「お遍路」ではなく「行脚」ですが)

たとえ自然災害が原因であっても、それを自分の責任だとして受け止め、できることはしようと決意した賢治さんと比較して、ついそんなことを思ってしまいました。

もちろん、「どんな手段を用ひても辨償する」といいつつも、賢治さん個人にはそんな資産はありません。
実家の宮沢家の財力をあてにしての言葉ですから、それには「甘い」「現実無視」といった批判も当然あります。
(借金だらけでお金がない今の日本も似たような状況かも?)
でも、大切なことは「未曾有の・・・」「想定外の・・・」と何事も自然のせいにして逃げるのではなく、自分の責任としてそうした災害に対峙する気持ちを持つことではないでしょうか。
あらためて、そんなことを思いつつ、この詩を読み返しました。

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